その頃。
「ここはどこだ?」
目の前は真っ暗だ。
手を伸ばすと、冷たい金具が触れた。
金属でできた骨組みを隠すように、外側は柔らかいフェルト地で覆われている。
何か箱のような物の中なのか?
慎重に、形を辿りながら隙間を見つけると、日向は外に出た。
真っ暗な空間。
見覚えのある緑色の照明が遠くで光っている。あれは非常灯だ。
「誰だ?」
暗闇の中、緑の光を背にして浮かびあがったシルエット。
長い髪を後ろで一つに結んでいる長身の男。
「矢崎か?!」
「日向?」
向こうが表情を伺っているのがわかる。
彗が近づいてきた。
間違いなく矢崎彗だ。
「おい、ここはどこなんだ?」
「ひな祭り会場だ」
彗は、いつものとおり冷静な口調で返事をした。
「矢崎、ふざけている場合じゃないだろう」
「ふざけたいのは山々だが、本当だ。周りを見てみろ」
周りを見回すと、薄闇の中、緑色の非常灯に照らされて雛飾りの段が並んでいる。
なんと、目を覚ました時の箱のような空間は、雛段の内側だったのだ。
「あの地下の底がこれかよ!」
「違うな。ここはまったく別の場所。また飛んだらしい」
「また…だと」
日向は目を見開いて、空気を感じた。
確かに、あの地下の湿っぽい空気とは違う。
妙に空調の行き届いたこの感じ。
「ここ、デパートのおもちゃ売り場じゃねえか?」
過去に嗅いだ事のある嗅覚の記憶が訴えている。
「なるほど、おまえはすごいな。そうかもしれない」
彗は珍しく感心したような顔を見せた。
「と、いう事は元の世界に戻れたのか?」
「そうとも限らんさ」
「いいや、絶対もとの世界だ!」
そう信じるなら、躊躇う事はない。
この閉店後のデパートから出るのが先決だろう。
歩き始めた日向の横から背後からギギッと鈍い音がした。
武道をやっている分、音や気配には敏感だ。
「?!」
見回しても何の変化も見当たらない。
と、その時だった。
「おかえりなさいませ~ごしゅじんさま…」
「矢崎、何言ってんだよ」
「オレは何も言ってないぞ」
「ごしゅじんさま…おかえりなさいませ~~~~」
ふいに上を見上げると、雛人形の目が瞬きしている。
人は、信じられないものを見た時、ついつい凝視してしまうものだ。
そして、後悔する事が多い。
確かに…雛人形は瞬きしていた。そして、口を開けて話していた。
「お・か・え・り…なさいませ・・・・」
「ぎゃ―――!!!」
思わず、拳を振り上げ、ひな壇を破壊してしまった。
「おまえ、何をするんだ!弁償物だぞ!」
彗がひな壇に付けられた値段の札をびしっと見せ付ける。
「ああ、あ。だってよ!しゃべった!しゃべったんだぞ!!」
「それがどうした。雛人形がしゃべってどうしてそんなに驚くんだ。音声がついているんだろう」
彗は雛人形の一つを手に取り、首を軽く引っこ抜いて中を覗き込んだ。
「ほら、中に機械が入っている」
「冷静に言うなよ~普通驚くって」
日向はげんなりした。
後でデパートの人に言って弁償させてもらおう。
「でも、最近の雛人形がこんなに高度だとは知らなかったぜ」
「時代は進化しているんだ」
日向が予想したとおり、ここはデパートのおもちゃ売り場だった。
雛人形の隣にはおもちゃ売り場が広がっていた。
「夜のおもちゃ売り場ってなんかこう不気味だよな」
二人は広いデパート内を彷徨った。
非常用の電灯だけがつけられた見知らぬデパートは、まるで迷宮だ。
「とりあえず、下に下りよう」
止まったエスカレーターを降りる。
次の階には本屋があった。
エスカレーターはそこで途切れていた。
だが、そこは1階ではなさそうだ。
「ここも調べてみよう。もしかしたら、エスカレーターが他にもあるかもしれない」
本屋の向かいには水周りの物が展示してあった。
「まとまりのないデパートだな」
「昔、こういうデパートっていうかスーパーみたいの結構あったじゃん」
「そうか?」
彗は首をかしげる。
「今みたいにきちんと整理されてなくてさ、売り場がごちゃごちゃしてて…そんな所で迷子になったりすると、大変なんだよ。親は見つかんない。でも恐いけど、楽しい。次は何があるんだろうってさ。迷子が遊びになっちゃうんだよな。探検っていうか、自分しか知らない場所とか見つけたみたいで嬉しくかったりして」
「まぁ、たしかに。ここはそんな雰囲気だな。小さい時は今では当たり前に行っている所が迷宮のようだった」
二人は、並んだ便器の横を通ろうとした。
「Freude schoner Gotterfunken Tochter aus Elysium!」
「ぎょ!」
突然聞こえてきたクラシックな歌声に、日向が飛びのいた。
便器から大音響で響いていくるその歌。
ゆっくりと、しかし威厳をこめた感じで自動的に便器が開く。
「Wir betreten feuertrunken Himmlische dein Heiligtum!」
誰もが一度は聞いた事がある。荘厳な歌。
「第九だな」
しかもきっちりドイツ語で。
「どうして便器が第九を歌ってんだよっ!?」
日向が突っ込むのも無理はない。
「こんなの座れないだろっ!」
実際に座ってみせて日向が言う。
「何をあわてているんだ。便器から第九が流れてきただけで」
あいかわらず冷静な彗に、日向はつっかかった。
「じゃあ、おまえは朝一番が出た日に便器がアニメ声で「今日も快便ですね!」って言っても
平気なのかよ?!」
「それとこれとは問題が違う。これは流水音の替わりなんじゃないのか」
「第九が?」
「どちらにせよ、最近のニーズは意外と過激だって事だ」
「冗談じゃないぜ…」
日向と彗が歌う便器を前に語り合っていた頃。
別働隊の二人+一人が、さらに下の階にある迷宮で巨大ザリガニと戦っている事など、二人は
知るはずもなかった。