―ダンス―
暗がりの中でもがいても、外に出られるわけではない。
手を伸ばしても、何にも届かずに虚しい空間が広がるばかりだ。
唯一、足元に残っていた僅かな支えさえ打ち砕かれてしまった。
このまま、この中に埋もれ、窒息死するのだろうか。
いや、死は訪れない。
苦しみが無限に続くだけだ。
「その者は、手首を切り裂き、命を絶った。赤く流れる血が彼の服を全て染めた時、彼は絶命していた」
そんな文を見つけたのは、いつの日の事だっただろうか。
私は、その光景を羨ましく思い描いたものだ。
「国王陛下」
女官が一人、国王の私室にやってきた。
「国王陛下」
先ほどから、何度か声をかけているのだが、中から声が聞こえない。
国王付きの女官か、誰かが一人くらいいてもよいはずなのに。
替えの服を持ってきた彼女は、扉の前で途方にくれていた。
しかし、よく見ると扉には鍵がかかっておらず、僅かに開いているではないか。
しかたなく、その隙間から部屋を覗くと…。
そこで彼女が目にしたものは。
「!」
幼い国王は、窓越しに腰掛けて微笑んでいた。
手首のあたりから、赤い筋を滴らせて…。
「た、大変です!陛下が!陛下が!」
女官の声を遠くに聞きながら、トトは思った。
-これで死ねる-
手首に刃を向けたのは、これが初めてではなかった。
あの者、ジュールが来てから、しばらくたった頃だろうか。
偶然書庫で手に取った本に、そのような死に方が書いてあったのだ。
はじめはとても恐ろしい事のように思えたが、自分の白い手首を見ているうちに、ここを切り裂きたいという願望が芽生えた。
この青白い肌には魔力があるようだ。
特別に何か考えていないときにでも、目に留まった途端、刃物を当てたくなる。
刃物が手元にないときは、爪で傷を付けた。
赤くなった自分の肌を見ていると悲しみが襲ったが、次の瞬間すっきりとする。
何か、罪が許されたような一瞬の慰めだ。
初めは薄くみみず腫れができる程度であったが、たまたま力を入れたときに血が出た。
「痛い!」
と刃物を取り落としたが、すぐに滲む血を見て自分がとても落ち着いていることに気づく。
汚れた血がたくさん身体から流れ出れば、心が綺麗になる気がした。
あの弟のことも許せる気がする。
私は、あの弟に嫉妬し、また僻んでもいた。
あの者が私の前に現われる度に、私は醜い感情が湧き上がるのを感じ、嫌悪した。
だが、この行為をするだけで、私は少なくとも一瞬だけは清められる。
愚かな考えだとわかっていても…もっと、もっと、と求める心は止められず、傷は徐々に深くなっていった。いつも手首にガーゼを当てていると、人に疑いの目で見られるので、手の甲を切ったり腕を切ったりしては自分を慰めた。
だが、影はそれではあきたらず、もっと酷い行為を私に要求した。
-頭を切り裂け-と聞こえても、私は手首を切るに止めた。
いつか、私は私に殺される。
死にたいという欲求とは裏腹に、私は死をとても恐れていた。
しかし、このまま生きていて何になる。
私は、この世にとって罪悪であり、いらないものなのだ。
死にたいのではなくて、消えたい。
それが呆然と理解できた時、もはや私は「自ら死に至る病」に冒されていて、行為を止めるすべをもたなかった。例の教育係に殴られてできた傷でさえ、私にとっては自分を滅ぼしてくれるかもしれない一手であり、できた傷跡を何度も刃物でこじ開けようとしたものだった。
鏡に映った私の身体は傷だらけで、私は涙を流しながら「父上と母上」を呼んでいた。
影は、それを背後から見て笑っている。
「早く死ね」
鏡の中の私は泣きながら呟いた。
「浅く切ったからよかったものの、このような事が起きるとは、ただ事ではありませんぞ!」
セバスチャン・デティオールはリーチェ公夫人に向け怒声をあげた。
「私の責任だとおっしゃるのですか!」
リーチェ公夫人は憮然としている。
そして、手当てを受けるトトに向き返り、その肩を掴んで言った。
「陛下!なんという事をなさったものか!あなたには、国や王のお立場の重さがわからないのですか!」
ああ、前と同じだ。戴冠式の時と。
トトは感じた。
「大丈夫ですよ。この程度じゃ死なない」
発した声は、自分のものではないようだった。
「!死ぬなんてっ馬鹿なことを!」
リーチェ公夫人の表情が凍りついた。
トトの口元からふと笑みがこぼれた。
この人を動揺させてみたかったのだ。
しかし、リーチェ公夫人は目をギラギラとさせて、感情のままに怒鳴った。
「あなたには、プライドというものがないのですか!国王としてお生まれになったからには、何があっても負けてはならぬのです!」
彼女の声に頭がガンガンしてきた。
「私は・・・・」
「あなたは、生きていたいとは思わないのですか!」
頭の中で何かが弾けた。
「私は、王のしての、人としてのプライドがあるからこそ、死にたいのです!あなたにはそんな事もわからないのか!」
自身の声が頭と耳に響き、部屋中が震え、そして沈黙が訪れた。
リーチェ公夫人は、背を向け、「二度とこのような事が起きぬように、この事は他言無用です」
と言い残し、去った。
セバスチャンも。
誰も彼もが無言のうちに部屋を後にした。
やはり、一人ぼっちだ。
また、嫌な夜会がやってきた。
一通りの挨拶を終えると、私はカーテンの中に閉じこもった。
”二番柱の御人”は誰もが知っているのに、誰も声をかけない。
誰もこの中に入ってはこない。
以前、私を引き出そうとした者に抵抗してやったからだ。
それ以来、誰もここを訪れる者はいない。
私などいなくても、夜会も国も成り立つのだ。
それに、今は…。
外から聞こえてくる声で、ジュールがやってきたことを知る。
皆の声は、彼に向けられている。
誰も、私がここにいる事を気にするものはいない。
私は窓に映る自分の姿を見ながら、時を過ごしていた。
外は雨が降っていてガラスが白く曇っている。
かすかに映る自分の顔の形を指でなぞると、水滴が滴り落ち、まるで泣き顔のようになった。
すると、カーテンのすぐそばに人の気配を感じた。
早くどこかに行ってほしい。
すると…
「兄上」
カーテンの向こうから声がした。
誰…?
「兄上…ここにいらっしゃるとお聞きして」
澄んだ声。
人違いだろう。
私は、兄上と呼ばれたことはないし。
第一、私には、弟なんて…。
次の瞬間。
突然、カーテンが開かれた。
振りかえると、そこにいたのは…
「…ジュール」
シャンデリアの光を背に、立っているのは、私の弟。
「兄上、やはり…」
彼は、安堵したように微笑んだ。
「もうすぐ、メヌエットが始まるようです。ご一緒にいかがですか?」
白い手が差し出された。
「私は…」
「兄上。実は、ずっとお話する機会がほしかったのです。しかし、なかなかその時間もとれず。兄上は、私の事をお恨みでしょうか?」
「私は…」
突然、そんな事を聞かれても答えられるようはずもなく…。
カーテンにしがみついたまま、後ずさりした。
「兄上は、夜会がお嫌いですか?」
「・・・・」
首を何度か縦に振ると、
「私も、好きではありません」
ジュールは、そう言う口とは裏腹に伸ばした腕で私を掴んだ。
「しかし、少しだけあなたと共にいたい」
大した力で引っ張られたわけでもないのに、私の身体は導かれるように外へ出た。
眩しい光。
流れる音楽。
「一緒に…」
ふわりと、身体が空に浮いたようだった。
私をリードして、見事なほど完璧に足を運ぶ弟は、やはり私よりも場慣れしているように見える。私は振り回されているだけであったが、周りから見ると、おそらく見事に踊りこなしているように見えるのだろう。ジュールの技術によって。
人々の視線を感じる。
いつの間にか、私達は人々の中心にいた。
溜息をつく婦人。ジュールに向けられる視線。
私に向けられる非難の眼差し。
ジュールは、このために…私を連れ出したのだろうか?
こんな風に、自分との違いを見せつけ、私を傷つけるために。
私の弟なのに…。
悲しくなった。

「今は…こんな形でしか、ご一緒できないのが残念ですが…あのカーテンの裏側では、聞き耳を立てる者もおりましょう。逆にこうしていた方が、音楽に会話が消されて都合がいい…」
とジュールは言った。
「やめてよぉ…」
それは、声にならない声。
もうやめて…!
人々の視線が、ぐさりぐさりと、私を貫く。
ハァ!と、大きく息を吐いた。
胸が苦しい。
まただ。目の前が暗くなって、頭にドクンドクンと大きな音が響いてきた。
音楽さえ、よく聞こえない。
ジュールの言う事さえも…。
ぐらぐらする。
私を傷つけるために…ジュール…どうして…。
「兄上?!」
後ろに倒れそうになり、弟の手を強く握った。
手の感覚が薄れ、痺れている。
指先が冷たくなり、痙攣を起こしてあらぬ方向に曲がり、そのまま硬直した。
「ああ…」
息が出来ない苦しい。
「どうなさったのですか?!」
弟の澄んだ水色の瞳が、しっかりと私を捉えた。
しかし…
こいつは、敵なんだ。
私を、傷つけようとする敵なんだ。
何度も、心で呟く。
それなのに、なぜか私の口は信じられない言葉を吐いた。
「助けて…」
私は、余程の馬鹿か、お人よしだ。
敵に…このような言葉を吐くなんて。
「兄上!」
私の身体を、しっかりと支えようとする力強い腕。
ジュールの腕。
それを振り切って逃げた。
もう、何も見たくなかった。