拭えない過去
ジュールの事をもっと知りたい。
それは、単なる好奇心とは違うものだった。
ジュールは自分の事をあまり話さなかった。
トトの心境は、もっとジュールに近づきたいというものだったのかもしれない。
トトは、一冊の小さなノートを持ち、白い館に向かった。
「少しずつ小説が進んでいるんだよ」
だが、ジュールは興味がなさそうな顔をしていた。
「私、ジュールの事がもっと知りたいよ」
「どうして?」
「だって…」
自分でもなぜなのかわからない。
「きっと、兄上は私の事が嫌いになるから…」
と、ジュールは仕方なさそうに微笑んだ。
いつか前にも見た、どこか苦しげな作り笑顔。
「ジュール、もし聞いていいのなら、ジュールの母君はどんな方だったの?」
ジュールは口元に浮かべた笑みを消した。
おそらくは会ったこともない父よりも、一緒に住んでいたという母の話題のほうが
ジュールにとって話しやすかろうと、トトは思ったのだった。
「人を、愛するだけ愛して死んだ女」
「え?あの……」
ジュールの声には色がなかった。
トトの認識からすれば、母とはそういうものではなかった。
母を女だと思ったことさえなかった。
「それ以上は知らない」
「でも…その…優しかったとか…」
「父に関しては見たこともない!」
さきほどの声とは違って、強い非難の声。
「ん…」
トトは、まるで自分が責められているかのような気分になり、俯いた。
ジュールの母は事故で亡くなったという話を、ふいに思い出した。
自らも母を事故で亡くしたトトにとっても、母の事を聞かれるのは辛かった。
そして、父の事も…。
今更、どうしてこんなに舞い上がって、ジュールに聞かれたくもない事ばかり聞いてしまったのか…
後悔の念に押しつぶされそうだ。
「あなたは存じないかもしれないが、私の父という男は、自分の手をつけた女と生ませた子供に
金だけを送ってくる、そういう存在だった。事実を話したつもりだけれど、そのことで兄上を責める気は…」
トトは大粒の涙をこぼしながら、小さなノートを握り締めて立ちすくんでいた。
いっその事、ここでノートを引き千切ってしまいたかった。
そして、走り出た。
待たせていた馬車に乗り込むと、小さな声で
「城へ」
と言った。
身体中が痛い。
切り裂かれるように。
まるでジュールの傷のように。
どういうわけか、昔聞いた友の声が耳元で聞こえた。
「おまえ、こんな気分よりもっと嫌な事あるんだな・・・知らなかったよ・・ごめん・・」
トトは声を上げて泣いた。
それから、しばらくトトは白い館へは行かなかった。
しかし、その間、夢をみた。
ジュールと二人歩いていた。二人でどこかへ行くようだ。
いつものように楽しく話し、笑いあっていた。
別段、それが珍しい光景でもなく、ごく当たり前のようだった。

トトは幸せな夢からさめて、また泣いた。
どうして泣いているのかもわからない。
次の日、マルグリット嬢にピアノを教わりながらも、トトは涙を零した。
「どうされましたか?」
マルグリット嬢が声をかけても、トトは首を振るばかり。
トト自身にも、どうして泣いているのか、涙が出てくるのかがわからないのだ。
ジュールを傷つけた。ジュールと話しにくい。ジュールに会えない。
実のところ、そのうちのどれでもなかった。
しかも、この涙は一度流れ始めると、とどまることを知らなかった。
-神様、私が壊れてしまう!-
これは何?
それから、しばらくして…。
リーチェ公夫人はある計画を持ち、とても心を弾ませながら、王の私室を目指していた。
「国王陛下!」
珍しく笑みを浮かべながら、夫人は国王の書斎に入り、「これへ」と女官たちを呼んだ。
それぞれの手には女性の肖像画が掲げられている。
「なんのつもりですか?」
「この娘など、とても器量がよく、家柄も立派で、3代前の伯爵は…」
「一体なんのお話ですか?」
トトは聞き直した。
「陛下もそろそろ相応しいお相手を、と思いまして」
「な!私はまだ…」
トトは青ざめた。
昔から、この手の話はあったが、まさかこの時期に持ちこまれるとは思ってもみなかった。
「私はまだ…」
「なにをおっしゃる!」
夫人は鼻息を荒くしながら、まくし立てた。
「バストール国王は、もう妃を迎えているではありませんか!我が国も遅れをとってはなりません」
「そういうものですか…?」
「そういうものです!」
トトは頭を抱えた。
心の中で浮かんだ言葉は、“知りもしない人に触れられるのか?”というもので、
それは、逃亡中の生活を否定するものだったが、確実に今の本心を表す言葉だった。
おおよそ、こんな計画を持ち込んでくるリーチェ公夫人という人は、恋というものを知らないに違いない。
もはや、何を言っても無駄だろう。
絶望と同時にアンジュー公の悲しい話を思い起こした。
「人を好きになる事がどんなものか、君は知っているのか?」
自分を狂わせ、罪に手を染めてでも逆らえなかったあの人の恋。
私は、どうすればいいのだろう。
「陛下のお気に召す娘はおりますか?」
夫人は上機嫌で微笑んでいる。
「私は…」
その人を抱き、
その人と一生を過ごさなければならないだろう。
想っていない気持ちのまま。
「もう少し考えさせてください」
白い館。
今日は、珍しい来客があった。
別段、話す気もなかったが、やってきてしまった以上しかたがない。
これまた珍しく上機嫌な笑みを浮かべながら、リーチェ公夫人は我が事のようにはしゃいでいた。
「国王陛下が、ある女人を大変御気に召しておられまして…いつでもお手元から離さず、お二人は
まるでご夫妻のようです。ああ、言い過ぎました、私とした事が!
しかし、イルミーネに吉報がもたらされるのは、近いうちになるでしょう!」
続いて、夫人はいろいろとお話されたが、全て丁重にお断りした。
リーチェ公夫人が出て行った後、ジュールは一人、書斎で考えた。
トトの困った顔が目に浮かぶようだ…。
あの人の事だ。このようにきっぱりとお断りもできずに、しかたなく従わざるを得なかったのだろう。
…なぜか、可笑しくて笑える。
トトが永久に去ってしまうかもしれないと、理性は叫んでいるのだが、心は落ち着いていた。
どうしてか。
見知らぬ村で、トトとあの女が重なった影を見た時は、あんなにも心が痛かったのに。
トトの印象は、昔とは違うものになった。
白い館に来てから、私は初めて本物のトトと接したのだ。
それまでは、都合のいい幻想でしかなかったあの人に。
昔の私は、彼に泣いてもらう役割を感じていた。
純粋な兄は、泣けない私に変わって泣き叫んでくれる人だった。
やがて、トトという存在が私の中を埋めていくにしたがって、
私は、夢の中の彼に、自分の吐き出せない欲望や感情を彼にぶつけるようになっていった。
愛されない私が、トトを愛する事で満たされる…。
傷ついた心の最も敏感な部分にいる存在、それが“トト”
人の言葉を借りれば、それは依存であり、満たされない愛の代用品だった。
私は、父への反発もあって、トトを守ろうとした。
父が大切にしていたトトを、私が守る。
私自身を守るために。
誰にも、傷つけさせない。
誰にも、汚させない。
…それなのに、綺麗なはずのトトは、私の父や母と同じく汚れてしまった。
見知らぬ女と口付けを…。
あの時に壊れた私の心の一部。
それほどに、トトは私の心の中に深く根付いていたのだ。
しかし、私の中で崩れ去ったトトは、トト本人ではなかった。
トトの語った小説の中の彼自身は、そんなに神聖なものではなかった。
血にまみれ、汚物にまみれて、生きていた。
ご都合主義で、人の気も知らずお人よしでさえあった。
それが、彼の優しさと直結しているかどうかは知らない。
この前のように、その能天気ぶりが頭にくる事もあった。
…でも、泣かせるつもりはなかった。
こんな思いをさせたくない。
心にあったのはそれだけで。
私が味わった以上の悲しみや、寂しさや苦しさを知ってほしくない。
だから、私の中に入り込ませたくないのに、あなたは触れてくる。
私は自分に向かって言った。
「では、なぜあんな事を言ったのだ」
「陛下、聞いていらっしゃるの?」
ドリー嬢は、さっきから何度も聞いてくる。
「うん」
彼女は悪い人ではない。
むしろ、優しく思いやりもある人だった。
自分の事を話すのが好きだったので、信用できて、しかも内容はどこかマイナス思考すぎて
逆にユーモラスささえ感じさせた。
いつも、自分の話を聞いてもらおうとする彼女に、私は親しみを覚えてきている。
…彼女の事は嫌いじゃない…
でも、ジュールとだったらもっと違う話ができるかしら?
「ねぇ!陛下」
「うん、ごめんね」
彼女に恋愛感情を抱くのは、努力次第だろう。
好きになろう。
ならなければ。
今まで男と過ごした日々は忘れるんだ。
私は、もう大人なんだから。
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「傷は…どう?」
ひさしぶりに白い館にやってきた。
ジュールは、いつも通り木の下にいた。
小さな本を手にしている。
「お元気でしたか」
前と変わらぬ様子で、「どうぞ」と隣へ導いた。
ジュールは、いきなり
「その方を愛しておいでか?」
と聞いた。
「え?」
誰の事だかわからず、首を振る。
「風の噂がここにも届きましたゆえ…に」
ドリー嬢の事かもしれない。
「だって…私はそういう立場なのだから…」
舌がもつれた。
「人に決められたとおり、生きるのが…私の幸せだと…私…」
もう、どうしたらいいのかわからない。
懸命に、ドリー嬢の笑顔を思い出そうとした。
私は、あの人が好きだ。
あの人を好きにならなければ。
私は、幸せになるのだ。
皆が望む幸せを手に入れるのだ。
何が悪い。
涙が、とまらないのを知った。
「ジュー・・・ジュ…」
叫んだ。
「幸せになるんだ!私は、皆が望むように、幸せになるんだ!」
幸せを語りながら、私は泣いていた。
どうして涙がとまらない。
ジュールのアイスブルーが、私の前に在る。
“神様…私の魂が…”
「助けて…」
“この人の中に吸い込まれてしまいます”
私の望む、皆が望む幸せは、この時間の永遠の終焉を意味するのではないか。
いつかの夜会のように、見えぬ視線の剣が私を貫く。
しかし、誰に否定されても、失いたくない。
この一瞬を。
ジュール、夢で見たように話そうよ。
ずっと二人で面白い話をしよう。
本を見せて。
音楽を聞かせて。
どこまでも深い氷の瞳に私が映っている。
知らなかった。
こんな制御できない感情を。
罪も罰も無視した魂の暴走。
身体の中で暴れまわる感情の正体。
私は、それに名をつけたくはないんだ。
「トト、泣かないで」
気がつくと、ジュールの腕の中にいた。
「どうして…そんなに我慢をしているんだ」
あの朝、ジュールが目覚めた朝と同じ匂いが私を包んだ。
この香りに包まれていれば…。
このまま時が止まればいい。
涙が零れ落ちた時、私の中で誰かが囁いた。
この感情の名は「優しい慰め」だと。