ひととき
さしこむ朝日の眩しさに、トトは目を開けた。
一瞬、自分がどこにいるのかがわからなかった。
たしか…夕べは王宮内の自分の部屋で寝たはず・・・・。
誰かが、自分の手を握っている事に気づき、やはりこれは夢なのだと思った。
しばらく…その白く滑らかな手を見ていた。
爪がとてもよい形をしている。肌の感触は冷たく象牙のようだ。
長い指が楽器を弾くように、動いていた。
誰なのだろう、この優しい手の人は。
その手が、こちらに伸びて髪を梳いても、トトはじっとしていた。
-父上の夢を見ているんだ…-
とても懐かしい動作の中にも慣れない不思議な匂いを感じて、トトは顔をあげた。
だから
「ただいま、兄上」
そう言われても、現実がとっさに受け入れられなかった。
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これは夢だ。
そうしてまた目を閉じたが、背中の痛みに現実に帰らされた。
一晩中この格好で寝ていたのなら、しかたのない痛みだったが、これこそ夢でない証拠でもある。
「ジュール!」
まだ自分たち以外誰も起きていないようだ。
叫んだと同時に、トトはなんとも言えない笑みを浮かべた。
どうしたらいいのかわからず、こういう表情しかできなかったのだ。
その直後、ジュールの表情が少しも動いていないのを見て、トトは青ざめた。
「私は…ごめんなさい」
そういうのが精一杯。
もうどうしたらよいのかわからず、ただただ恐ろしい。
あんなにも望んでいたジュールの回復なのに。
空気の冷たさが、全身を刺した。
まるで、自分に対するジュールの感情のようだった。
国からも立場からも逃げた自分を探しにきて、彼はこのような姿になったのだから。
私を軽蔑するだろう、恨むだろう。
彼に憎しみを植え付けたのは私なのだ。
憎しみとは、できるなら誰にしても無縁であるべきものなのに。
私が彼に暗い感情を植え付けてしまった。
「ごめんなさい…ごめんなさい」
私を、どのようにしてもかまわない。
だから、あなたの中にある暗い感情が、あなたをこれ以上捕らえることがないように。
逃げたくてたまらない現実。本当はとても恐ろしい。
「皆がどれだけあなたの事を心配していたのか、あなたはご存知か?」
ジュールは静かに言い、トトが何度となく涙を零しながら頷くのを見て、先ほどのように髪を梳いた。
「ご無事でよかった」
「でも…ジュージュが…ジュージュが…」
舌がもつれて、うまく言葉が出ない。
「私の名前は、ジュージュじゃない」
ジュールは思わず吹き出したが、ふいに顔を顰めた。
顔を覆っている包帯に血が滲んでいる。
「わたしのせいで、こんな怪我を」
トトはジュールに手を伸ばしたが、ジュールがさっと身を引くのを見て、唇を震わせながら
「痛いんだよね」
と言った。
「私の不覚から、このような事態をまねいてしまった事はお詫びいたします」
あくまで形式的に済ませようとしているジュールに、トトは叫んだ。
「違う!違う!私はそんな答えなどいらない。私が行動を起こさなければ、おまえはこんな事には
ならなかった。そうだろう?!私をどのようにしてもかまわない。同じ傷を負わせたいならそうすればいい!
そうでなければ、私の気が済まない!さぁ!」
「そんな事をして、何になります?まったく…」
醒めた態度のジュールとは、逆にトトはますます泣き叫んだ。
「だって私が、私がっ!」
「いいかげんにしなさい!」
大きな声で言われて、トトはビクリと身体を震わせた。
「あなたは謝るべき相手を間違えている。あなたは勝手に出て行き、私は勝手に探しにいった。
その結果、私が傷を負っても誰の責任といえるだろうか。それよりも、あなたがいない間、国を守ってくれた
人々にかける言葉を見つけなければならない。あなたも、私も」
「その上で」
と、ジュールは続けた。
「どうしても恨んでくれというのなら、ここでの退屈な時間の責任をとってもらおう。
ときどきこの館へ私を訪ねてくれますか」
トトはしばらく黙っていた。
心の沸点状態から、急に温度を下げられたので、一つ一つジュールの言葉を噛み砕き、反芻しながら
理解しようと努めているのだ。
少しした後、難しい顔のままコクンと頷いた。
白い館から見える小高い丘の上に、小さな木が一本あった。
ジュールのお見舞いに訪れたものの、あいにく彼は部屋にはいないとのことだった。
庭に出ていると聞き、あたりを見回すと、木のそばに人影があった。
「ジュール!」
「兄上…」
振りかえった彼の顔や手足には、まだ包帯が。
「痛まない?」
「…うん」
ジュールは木のそばに腰掛けた。
「王宮に何かお変わりは?」
「今のところは…」
ジュールは、手にした本を広げた。
トトもそばに座る。
「何を読んでいるの?」
「力学の本」
ちっとも面白くなさそうな本だ。トトは感想を持った。
「もっと目に優しい、美しい絵の載っている本のほうがいいのに」
「科学の本はお嫌いですか」
ジュールの発言は、質問というより理解したという返事だった。
ジュールは、その面白くなさそうな本をニコニコと楽しそうに読み始めた。
「ほら、これがこうなって…」
例えを含めて説明してくれているが、よくわからない。
「わかってないでしょう、兄上」
「もっと絵の多いほうが好みなんだよ」
「では、次回はもっと絵の多いものをご用意しよう」
ジュールがパタンと本を閉じたところで、私はここに来た目的を思い出した。
「怪我は、身体は、回復しているのかい?お医者様はなんと?」
そして、心は…。
「ええ、大丈夫だそうです」
ジュールは静かに答えるだけ。
次の日、木の下に行ってみると、ジュールが本を持って待っていた。
「今回は、ご要望どおり絵の多い本です」
そういって、ページをめくってみせると「人体解剖図」が出ていた。
・・・・自らも怪我をしているのに、よくこんな本を読もうとする・・・・
またもジュールは楽しそうに興味津々といった様子で、瞳を輝かせながら血管の話をしていた。
「傷が痛まない?そんな本読んで」
「自分の身体がどうなっているのか、むしろ、こういう時こそ興味が湧きませんか?」
「・・・・」
彼は…もしかして少し変わった人なのかもしれない。
トトの中で、完璧な貴公子アルキュード候が“変な人”“面白い人”に変わりつつあった。
偽りのひととき。
女官が包帯の替えを持ってきた。
目覚めてしまったからには、自分の世話は全て自分でしなければならなかった。
そんなことは、どうでもよかった。
ジュールは包帯を巻きなおしながら、ふと外を見た。
トトが明日もやってくるだろう。
私の見舞いという名目のもと。
トトは、幼い頃のように絶望の表情を浮かべることは少なくなった。
でもなぜか、いつもどこかしら悲しそうな色を瞳に浮かべていた。
昨夜、トトを夕食に誘った。
食後、トトはワインを飲みながら椅子に腰掛け、ぼんやりと遠くを見つめていた。
「どうなされたのですか?」
「なんでもないよ」
でも、その顔は今にも泣き出しそうに見えた。
私は、今まで寂しい悲しい顔をした人をずっと見てきた。
アンジュー公、母上…。
狂うほどの寂しさと悲しさ、皮肉なことに、そうした暗い狂気の色は彼らをより魅力的に見せてもいた。
でも、トトの悲しい瞳はそれとは違っていた。
その瞳には、強がりな寂しさと、生きていなければならない明日に対しての恐怖が見て取れた。
「サングの面白い話を思い出したんだけど…」
トトはそう言ったまま黙り、結局はサングの面白い話を語ることはなかった。
この人も心のどこかでいつも一人ぼっちなんだ。
私たちに共通しているのはそれだけ。
「トト、私と一緒に…」
「・・・」
トトは、もう帰る時間だ、と言って帰っていった。
トト、私と一緒に絵本を見よう。
先日、あなたが言っていたような美しい絵の載っている本を手に入れた。
一緒に見たら、楽しいだろうね。
あなたはどんな顔をして、どんなことを話すんだろう。
私は、本当にそうしたかったのだ。
それだけ。
余った包帯を机の上に置き、かわりにトトに見せるはずだった本を手にとった。
そこには世界の風景が散りばめられていた。
トトは、なんて言うだろう。
どういうわけか、楽しくなってきた。
私が怪我をしている間、トトはここへやってくる。
私が作り出している、偽りのひとときがどうか醒めないように。
トトは、その日、珍しく科学の本を読んでいた。
トトは、理系の勉強が苦手で、こういったものはできる限り倦厭していたのだが。
「これはお珍しい!陛下が」
トトが顔を上げると、セバスチャンがいた。
「いやいや、これは失礼を」
コホンと一つ咳払いをして、セバスチャンは新しい草案を差し出した。
「ジュールと話すためにはね、必要なんだよ」
「アルキュード公が、科学にもお詳しいとは存じ上げませんでしたが」
“にも”というあたり、セバスチャンに限らず、ジュールと接したことのある者は、皆、彼を万能の人だと思うらしい。
トトは、なぜかとても得意な気分になって、わざとらしく科学の本をかかげた。
「私も、新しい知識を学んだぞ!」
ジュールは閉鎖的な空間にいるにもかかわらず、世の情勢をよくわかっていた。
王宮の中でも、誰が何を考え、どの立場にいるのかを正確に言い当てた。
「すべては私の私情ですが」
とジュールは笑う。
この人と、話していると自分まで賢くなったような気分になった。
サングとは違う意味で、ジュールは面白い人だ。
この人のまわりを取り囲むように情報が流れていた。そして、その中でも重要なものは必ず彼の中心を通っていた。
トトは、自らが今まで自分ひとりの考えだけに捕らわれていたことを悟った。
ジュールの考え方は、自分はあくまで自分。他人はあくまで他人だった。
ある時、ジュールは言った。
「疲れませんか?」
「なにが?」
トトが聞き返すと
「あなたは意地を張りすぎている」
という。
「そんな事はない」
「意地を張る部分を見誤ると、必要以上に疲れますよ」
トトには…思い当たるところが多すぎた。
しかし、ジュールはどうしてこんなに私の事がわかるのだ?
ある日、噂に聞いた。
「国王が掴みきれない人物」だと。
馬鹿なことを!ジュールは笑った。
わかりにくい人ほどわかりやすいのだ。
わかりやすい人ほどわかりにくいものだ。
トトは、ただ真正直に生きているだけであった。
それが、真正直に生きていない人々には見えないだけだ。
あの人は、好きなものは好きで、嫌いなものは受け入れられない。
その事で、必要以上に自分を責めていた。
そして、頑ななまでの意地を張って生きている。
自分を自分で傷つけて、ボロボロになっても、弱みを見せられないのだ。
彼の敵は、いつも彼自身であった。
一番やっかいな敵を戦っているくせに、それを誰にも見せなかった。
それを、誇り高い態度と取るにしては、彼は脆すぎた。
そして、その戦いをあきらめてしまえば楽になれるのを知っていて、彼は、なお強情だった。
私には見えている。
一人の人間としてのトト。
もちろん、それが彼のすべてとは思わないが、それでも私はトトを把握していたかった。
私は、トトを包み込む夢を見る。
明日も、ここに来るのだろうか?
ジュールが呼んでいる。
と、私は思った。
思い込むことにした。
白い館に向かう細い道。
今日は、彼と何を話そうかしら?
トトの足取りは弾んでいた。
「ジュール!」
だが、扉を開けると、そこには包帯を替えているジュールの姿があった。
私が、勝手な行動をしなければ…。
ジュールは、それでもいつも通りにトトを招いた。
「どうぞ」
そう言って。
私は、彼の傷を癒せるだろうか。
あの傷は、自らで自らを傷つけた悲しい痕。
私でいいのだろうか…。
気がつくと、ジュールが頬に触れていた。
「悲しい顔をしている」
「どうして」
私は、トトを欺いている。
すべての責任をトトに被せて。
この人を縛り付けるためだけに。
「なんでもないよ」
トトは言った。
このひとときを失いたくなかった。
「…うん」
ジュールは頷いた。
このひとときを失いたくなかった。
二人は、昨日の夜からずっとためておいた話題を話し合い、笑いあった。
そこには、過去も未来もなく、ひとときがあるだけだ。
あと、1分でもいい。
もう少しだけお話がしたいね。
あと、1秒でもいい。
「またね」というまで、ここにいてほしい。

人を好きになるのって、本当は、こんなに簡単なことなのかもしれない。