-目覚め-/-想い出-
ある日、珍しい光景があった。
10歳くらいだろうか?
いつも一緒に遊んでいるような子供と同じような年頃の子が、王宮の中庭にいた。
あの子はだれ?
まわりに大人が何人かいたけれど、誰もあの子に気を留めていない。
私もしばらく見ていた。
その子は、好奇心の強そうな赤い瞳でまわりをキョロキョロと見ていたが、剣術場であるものを見つけて
顔を輝かせ、それを手に取った。
「危ない!」
叫ぶ声に驚いたのか、その子はビクリと肩を震わせて、握った剣を落とした。
「それは危ないよ」
突然出てきた大人を射るように見つめる赤い瞳。

・・・この子は誰かに似ている・・・
まるで、昔の私そのものだ!
悲しみに飲み込まれる前の私。
「きみの名は?」
「レオーネ」
その子は答えた。
その時、ふいに人工的なフローラルの香りが漂い・・・
華やかな女性が現れた。
「まぁ、こんなところにいたの!」
甲高い声。
誰だか知らないが、どこかへ行ってほしい。
私はこの子と話がしたいのに。
「母です」
レオーネは畏まった感じで言った。
「レオーネ!これは…陛下!」
大げさなほど仰々しく、中年の女性は挨拶をしてきた。
「国王陛下!お久しゅうございます。覚えておいででしょうか。前にお会いした時は、とても小さくてあられた」
「失礼ながら、どなたなのですか?」
「覚えておられぬのも無理はないこと。私は陛下の母君ルイの妹、レナでございます。イルミーネの首都や
王宮に参りますのも10数年ぶりになりましょうか・・・本当に何もかも変わってしまったのに・・・懐かしい」
「レナ伯母様!では、この子は・・・」
ずっと昔に母上が話してくれた私の従兄妹。
「レオーネ・クレランスと申します」
レオーネは、歳に似合わない礼儀の正しさで挨拶をした。
貴族の子弟のような服を着ているが・・・声が高い。
・・・女の子だ。と気づいた。
なぜ男のなりをしているのかはわからないが、よく似合っていた。
性別が曖昧なところも、私には親近感を覚えさせた。
私も・・・自分の性別に即した人生を生きているとは思えない。
私は、この子に興味を持った。
レナ伯母は何か話しかけてきたが、それをかわし
「剣に興味があるのかい?」
レオーネに聞くと、黙って頷いた。
「私の母も剣術を嗜んでいたんだよ。私でよかったら、教えてあげよう」
すると、顔を急に明るくして
「ほんと?」
と微笑んだ。
大人びて見えても、歳相応の子供なのだった。
この子は私に大切な何かを思い出させてくれるだろう。
そんな予感がした。
-想い出-
「この方はこの国の王になられる御方です。なんとしてでも目覚めていただかなければ」
医者を責め立てているのは母の乳母のウズメだ。
医者は、眉間に皺をよせながら呻いた。
「すべての手は尽くしました。本当に飲まれた薬がそれだけの量ならば、回復するはずです。
あとは、この方の御心の問題かと…」
「何をいうか!この方は王の血を引いておられる。そのようなか弱い御方ではない!」
私は、心の中でせせら笑った。
薬を飲ませたのはおまえだろう?
国王だと?
父だと?
見たこともない男が…。
もし、私がその無責任な男の血を引いているのなら、心が弱くて当然だ。
「私にできることは全てやりました。あとは神にゆだねるのみです」
「なさけない!」
医者は逃げるように去っていった。
…あれから何日たったのだろう。
ベッドのそばに腰掛けているのは神父だった。
非常に優しげな瞳で語りかける、その人は。
「神の愛を信じなさい。愛を信じれば人は必ず救われます。あなたを愛してくれる人の存在を信じなさい」
この…なんだ、心の琴線をズタズタに引き裂くような言葉は!
「愛こそがあなたを救う」
「黙れ…」
「今、何を・・」
神父のみならず、部屋にいる全員の視線が集中していた。
数週間、話す事を忘れていた口がごく自然に言葉を叩きだした。
「あなたが説く愛とやらが、今までどれだけの人間を苦しめてきたのか、あなたは知っているのか?
知っていて言っているのか?私が何を見てきたのかも知らないくせに、余計な事を言うんじゃない!」
「その…」
神父は何か言いたそうに口を開いた。
「あなたの傷ついた心はよくわかります。ですから、こういう時にこそ愛を学ぶべきではないですか?
人はあなたが思っているよりももっと暖かいものです。人を愛し愛される喜びと幸せを信じてはみませんか」
優しげな顔の…偽善者。
本人は自覚がないのだろう。
「人を愛する醜さと苦しみを知らない人間には言われたくない。私の母は私の父という人を愛したが
それは彼女にとって不幸以外の何者でもなかった。
私は母が幸せそうな顔をしているところなど、生まれてこのかた一度も見たことはない!
愛は罪悪だ。罪悪の間に生まれた者、それが私だ」
振り絞るように叫んだ。
「失せろ!」
-この世でもっとも尊いものが愛ならば、もっとも醜いものも愛なのだ-
…神父は出て行った。次に入ってきたのは、イルミーネ貴族を名乗る男だった。
イルミーネ国に突然バストール国王が訪れた。
肌寒い風が吹き始めるその頃。
まるで日常だった。
いつものように、連絡もなく訪れて、去っていく。
その間が少しあいただけ。
トトは前と同じようにお茶の準備をして友人を待った。
やがて輝くような彼が現れた。
トトは思わず目を細めた。久々に見る彼の黄金が眩しかった。
夜の街を徘徊していた自分とはまるで違う。
彼は、以前と同じように同じ口調で語りかけた。
「どうだ、旅は楽しかったか?」
サングは何も知らない。
トトは答えた。
「知らないことばかりで、驚きの連続だったよ」
サングは笑った。
幸せそうに。
待ち焦がれた向日葵の笑みだ。
あんなにも求め続けた暖かい南国の香りだ。
トトは思った。
彼の幸せを見ているだけで幸せだ。
この心、身体中に広がる喜びこそが愛情なのだ。
愛している彼を。
彼の幸せを誰よりも深く願っている。
この人を想い、私は一度はすべてを捨ててしまったが、この人がいないところで再び命を救われ
こうして目の前に存在している。
サングは、トトの短くなった髪を笑った。そして、トトの体調を聞き、姿が見えないジュールの様子を聞いた。
「ジュールはそのままだ、何も変わらない」
トトが首を横に振るのを見て、サングはチッと舌打ちをした。
「がっかりさせるんじゃねぇ、クソッ!」
吐き捨てるような言葉は、様々な意味にとれた。
そのへんがとてもサングらしく、トトは苦笑を浮かべた。
その後、サングはいつも通りに茶を飲み菓子を食べて、部屋を後にした。
昔よりどこかなだらかになった背中を見送って、トトは一息ついた。
私も新しく始めなければ。
さっそく、トトは、その日のうちに重臣達を集めた。
まず何かを始める前に人を知る。
損得の明確な判断。
理想も信念もその上に立つものだ。
ユンが教えてくれたものより少々複雑だったが。
今までの認識や考えが、いかに机上の空論であるかを知った。
親を含め、大人たちはさわりしか教えてくれない。
自らの理想を次の者に託すために、大きな夢を語るだけだ。
「理想は現実によってのみ叶えられるんだ。」
トトはリーチェ公夫人に語った。
「それでも、私は、教えられた理想以上の現実を成し遂げる」
夫人は何も言わずに頷いた。
翌日、リーチェ公夫人はセバスチャン・デティオール卿を午後のお茶に招待した。
「夫人のお招きとは・・・」
セバスチャンは失礼にも驚きを率直にあらわした。
それもそのはず、長い間、互いに敵対してきた仲だ。
「別に、そなたと話すつもりがあったわけではない」
あくまで、居丈高な態度をとりつづける夫人に、セバスチャンは肩をすくめた。
「しかし、国の有事に共にあった仲だ。今後の政事にも互いに何かと関わりあう機会もあると思ってな」
それは、リーチェ公夫人が初めて改革派に協力を申し出た瞬間だった。
「あの方が国に戻られた時から、国王中心にこの国は動き始める」
夫人の王室至上主義は変わることがない。しかし、少なくとも今の国王の考えに従っていこうという意思は
見て取れた。
セバスチャンは、さりげなく呟いた。
「さて、クルーレ卿はどのようにでられるでしょうか?」
「母上は機を窺っておられるが、叔父上は行動を起こすつもりらしい…フッ」
書斎にて、すっかり白くなった髪を弄びながらアランソンは言った。
「我々のしている事は人の感情を弄ぶギャンブルなのかもな」
「感情など考慮に入れなければいい」
そばに仕えるラルが呟いた。
「おまえは冷たいな」
「いえ、候こそ…」
国王が戻ってきた。
国王がいずこかへ消えた間、どういうわけかリーチェ公夫人とデティオール卿は結託しており、アルキュード候も行方がしれなかった。すべてのシナリオを書いたのは、バストール国王なのだろう。
あの若者、あなどれない相手だ。
自分の知らないところで、すべてが組まれていく。
そして、この時に事態を急速に変えるほどの力がこちらにはない。
頼みの綱のアルキュード候も重い病にかかり、休養していると聞く。
機を逃したのではない。
逃したのは運だ。
そう考えていた。
ところが、戻ってきた国王の眼差しを見て、アランソンは考えを改めた。
以前とは違う、強い力を持っていた。
「人間が感情によって強くなれるのなら、感情を捨てたほうが負ける」
「おやすみを…我が君」
「守り通してやる!」
「あなたは・・」
手には鞭。感情が昂ぶるといつも。
「守りとおす!我々が何を教えられ、何を捨て、勝ち続けるために生きてきたのか!
国王がどのように生きるべきかさえ、我らが決定する。
あれはそのように生まれ、私はこのように生まれついたのだから!」
「負けはしない!時代が私を見放そうとしているとしても!」
ラルの身体に鞭が振り下ろされた。
「“自由”などには屈服しない!そのように不秩序で下卑たものには。支配されてこその秩序、幸福であった
はずなのに。誰が今までこの国を支えていたと思う。今、歯車を壊すというのか!
我らの誇りを下々の者に売り渡せというのか!私は許さない、勝ち続けてやる!」
その時、ラルの身体とは違う方向から血が飛び散った。
「候…あなたは誰と戦っておいでなのだ」
喀血したアランソンは肩で息をしていた。
「誰にも負けはしない」
勝ち続けることを運命付けられた人生。
誰にも弱みも涙を見せることを許されない生き方。
他人をせせら笑い、つねに上を見つめて。
「私がもし、あなたの味方だと言っても、あなたは拒絶なさるのだろう」
「私に気安く手を差し出すな、奴隷がっ!」
アランソンは倒れこむように、ソファに横になった。とてもベッドに入るような気分にはなれなかった。
しばらくして、ラルが部屋に入ってきた。
もちろん、主人の命令はない。
だが、もし見つかったとしても、この家の本当の主人には咎められないだろう。
本当の主人とは、アランソンの母である。
表向き、すべてを息子に委ねているように見せかけて、実権を握っているのは彼女だった。
かつて、国王付き剣術師範の娘レネ・クレランスに袖にされて、意気消沈していた息子を一介の召使の手に
委ねたのは彼女だ。
「屈辱を与えよ、貴族の子息には想像もできないほどの」
それが、心のままに生きようとした特権階級への罰。
異常な世界だと思いながらも、自らもその歯車の一つになっていると自覚して、ラルは自嘲の笑みを浮かべた。
小柄な主人の身体を抱く。
そういえば、国王も同じくらいの身長だった。
だが、主人とは違い、おっとりとした顔付きの若者だった。
世俗のことなど一つも知らないような。
だからこそ、国王なのか。
アランソンは強者の眼差しでつねを上を向いているが、あの国王は下を向いている。
それこそが、生まれながらの支配者の証なのかもしれない。
そして、いくら誇りを奪い取られようとも、他人の力を吸収し自らの肉に変えて生きている。
あの若者から、これ以上奪うのは危険だ。
引き千切られた部分を決して奪われないものに変えて、本人の能力以上の力を伸ばしてくる。
現実的には、アランソンのほうが頭もきれるし、実行力もある。
それなのに、あの国王を意のままにすることが叶わない。
ラルの脳裏にあるビジョンが浮かんだ。
片手に太陽、もう片手に月を従えている国王の姿。
速度の速い彗星では壊せない。
どんなに輝いている流れ星でも。
「強くあれ、我が君」
昔よりも、艶のなくなった肌を辿りながら、ラルは思った。
あなたが、もし私さえ支配できなくなってしまったら、あなたの存在を本当に流星と化してさしあげよう。
あなたは、味方も友人も、それ以上の何も求めてはいない。
一人で勝ち続ける、それがあなたの“生”ならば・・・・。
今日は、ピアノのレッスンの日だ。
あの日、王宮のピアノを弾いていた婦人はマルグリットという名で、私にピアノを教えてくれていた。
彼女とは、レッスンの合間にもよく話をした。
初めに、彼女が自らの事を包み隠さず話してくれたおかげで、だいぶ打ち解けて話せるようになった。
彼女は、自分の辛い経験を語るのが恥だと思っていた私に変化の機会を与えてくれた。
私も、彼女にはできるかぎり正直に自分の思っていた事を伝えるようにした。
それを、マルグリットは深く頷きながら、よく聞いてくれた。
また、彼女は音楽だけではなく文学についても関心が深かった。
私も本が好きだったので、その手の話題でも私達はよく気があった。
そんな時、彼女がポツリと言った。
「陛下も物語を書かれてはいかがですか?」
「私には無理だよ、面白そうだけど」
そういうと、彼女は微笑んで
「あら、私はトト様の書いたものを一度読んでみたいのに」
「私は、小説を書いてみることにしたんだ」
剣術を教えているレオーネに、こっそり告白してみた。
「それで、タイトルは何がいいかな?と思って」
「「トトの秘密」とか「仮面の告白」とか…」
レオーネは真剣な表情で、ドキリとするようなタイトルばかり並べていく。
「そ、そんなに思わせぶりなタイトルじゃなくてね。もっと、あっさりしたものでいいんだよ」
「いっそのこと、「イルミーネ国の物語」ではどうです?これなら、トトの回想録というよりはフィクションっぽく
なりますからね」
「うーん」
単純すぎる気がする。
レオーネは、剣の扱いはトリッキーなくせに、ものの言い方はストレートだ。
私は小さいノートを開いて考えた。
タイトルは後で決めればいい。
最初の書き出しが重要なのだ。
読んだ人が自然に引き込まれるような書き出しがいい・・・
私にできるかしら?
・・・深い森を抜けると、なだらかな丘が見える。
その丘の頂上に城があった。
―塔の城―・・・
今日も、白い館のジュールを見舞う。
手には一冊のノート。
「私、恥ずかしながら小説を書き始めたんだよ」
書きはじめると、意外にもサクサクと書き進められた。
「私、自分の事を人に語るのは、ずっと恥ずかしくて弱い事だと思ってたんだよ。
でも、最近それは違うというのに気づいたんだ。だから、私の物語を聞いてくれる?」
トトは語り始めた。
自分が生まれてから何があったのか、どう感じたのかを。
読み進めるうちに、声が震え、途中でつまるところもあった。
特に、母と父を亡くし、乱暴な教育係に殴られ続けた日々は辛かったらしい。そして、心に生まれた影との戦い。
「私には本当に辛い日々だった。死んでしまうと思った」
文章にはない感想ももらした。
ジュールは、あいかわらず人形のように身動き一つせずに、物語を聞いている。
「これから、ジュールと出会うところを書くつもりなんだよ。もしよかったら、ジュールの事を聞かせておくれ…
嫌でなかったなら…」
-想い出-
兄は、今日ここに泊まるつもりだという。
しかし、すっかり日が落ちて暗くなっても、隣に設えたベッドには近づかずに、こうして私の手を握りながら
物語を聞かせ続けている。
夜がふけるにつれて、ウトウトとしてきたようだ。
しまいには、私の手を握ったまま寝てしまった。
その前に、力のない私の手のひらを開けさせて
「私と比べると全然違うね」
と笑った。
つい動かしてしまいそうになる視線と手を強張らせて、私はトトの声だけで様子を探っていた。
トトは私が何も感じていないと信じている。
だが、実際には触れられている手のひらはくすぐったくて…。
本当は強く握り返して驚かせてみたかった。
悲しい話をしている時は、小さな背中を撫でて。
失った幸せな想い出を語る時は、自分より低い位置にあるトトの髪を梳いてあげたかった。
他の者に身体を拭かれても、すべての世話をしてもらっていても何も感じなかったというのに。
ト
トが物語を読み進めるたびに、この人が今日この日まで生きていた事が奇跡のように思えた。
しかし、これから語られる物語はトトのものばかりではなく、私の話も加わるという。
聞いてみたくなった。
「私は…」
動くはずのない口が言葉を発した。
トトは寝ている。
他に誰もいない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
生まれた時から、自分のまわりが秘密を抱えているのは知っていた。
誰も詳しく語らなかったが、全てわかっていた。
父と母の事、アンジュー公の事。
わかっていながら、私は父を恨んだ。
すべてのきっかけを作ったアンジュー公の罪も、父を陥れた母の罪も、私にはすべて父が原因のように思われた。まわりの者が、私を見て「マクシミリアン陛下」とやらに似ていると噂していたのもあったかもしれないが、ともかく、アンジュー公と母の犯した罪は私が生まれる以前にあり、父の罪は私が生まれた後にあった。
父は、私にも私の家族にも無関心を通した。
母が薬で狂っていても、我が家に知らない男たちが出入りするようになっても。
母はよく踊るような足取りでガウン一枚纏い、裏庭に出ては床の上を愛おしそうに撫でていた。
誰もいない冷たい床の上で、必死に何かを探そうとしているようだった。
「温かい!温かい!」
陽があたると、母は歓喜して叫んだ。
そうして、日夜問わず知らない男たちに身体を預けた。
母は年々狂っていった。
「母上はどうなってしまうのだろう」
誰に聞いても答えてくれなかった。誰かが手を差し伸べなければ、彼女は戻れない道に行ってしまうのに。
誰もが知らぬ振りを決め込んでいた。
ここは、国王の妃になるはずだった高貴な女性と、国王陛下がありがたくも落としていった清い子供が住んでいる館。
決して、薬物中毒で狂った女と心を閉ざした冷たい子供がいる家であってはならないのだ。
アンジュー公は、そんな我が家にやってきて、過去の罪で汚れた手で優しさを説いた。
しかし、私は彼を恨んではいない。
この人は私と同じ被害者なのだと、心のどこかで思っていた。
少なくとも、こんな私にまともな環境を与えようとしていてくれたのもあって、アンジュー公とは不思議な絆で結ばれていた。
私は日々、アンジュー公からもらったリュートを弾いていた。
リュートの音色は私の耳からわずらわしい声をすべて消し去ってくれていた。
あの日も…リュートを弾いていた。
父が死んだ日。
あの日。
思い浮かぶのは、雪、ウズメの顔、赤い花嫁…。
「マクシミリアン陛下!」
「母上、私の名を呼んで!」
人の死とは、まるで一瞬の出来事だ。
あの日。波乱に満ちた彼女の人生は、私の目の前で終わった。
子供よりも夫を愛した彼女の人生。
一人の男に命を捧げた、私の母の人生が終わった。
私の目の前で。
ほんの数センチ先で。
私の手が、あの時、動きを止めなければ。
「マクシミリアン陛下!」
すべてに拒絶されバルコニーから飛び降りようとした母を、私は助けられたはずだった。
「私の名を呼んでください、母上!」
手を離したのはどちらだったのか。
「母は事故で死んだのです」
自らにも、他にもそう言い続けてきた。
私が母を殺したのだ。
あの時、母を拒絶しなければ。
父の死を知った私は、母の部屋へ行き、そこで見たものは半裸で泣き叫ぶ母の姿だった。
「嘘よ!皆、私を騙している!あの方が私を置いて亡くなるはずがない!わたしをおいて」
召使たちは怯えた瞳でこちらを見た。
そして、母の瞳が私を捕らえた。
「マクシミリアン陛下!」
まわりは何が起こったのか、まるで理解ができないようだった。私も含めて。
「陛下が生きて私のところへ帰っていらした!陛下!もう一度、私と…口付けを。今度は誓いの口付けを」
母が頼りない足取りでこちらに来ても、私は何が起こるのかわからなかった。
「マクシミリアン陛下」
母は私をそう呼んだ。
「もう一度、私を抱いてくださいまし」
柔らかい肉塊。
甘い香り。
すべてを飲み込む女の匂い。
底知れぬ感情の坩堝。
母の唇が私の肌に触れた時、私は叫んだ。
「やめろ!」
知らないうちに母を突き飛ばしていた。
「そのように、今再び私を拒絶なさるおつもりなのですね…」
母の顔が歪んだ。
「あの日、歌を歌ってくださったわ。優しい声だった…」
美しい顔が崩れて。
「私は、恥も外聞も捨てた女です。しかし、女には心もあり身体もあるのです。どうして、あなたはそれをわかってくださらなかったのか!愛おしい人、憎い人、あなたは私のすべて。愛しているわ、あなたのために生を受けてよかったと心から思えるほどに」
母はバルコニーに佇んだ。
「!」
母の身体が倒れ掛かるのを見て、風のように駆けた。
まわりなど見えなかった。
「母上!」
「マクシミリアン陛下!」
伸ばした手がそれ以上前に進まなかった。
気がつくと、母はバルコニーにしがみついていた。
母は落ちてはいなかったのだ。
「母上、手を!」
「陛下・・・」
「母上、私の名前を呼んでください!」
どうして、あの時、そんな馬鹿げたことを言ってしまったのだろう。
母はふっと微笑んだように見えた。
それ以上は伸びない私の手を見つめながら、母は白い雪の中に消えていった。
皆が騒ぎ始めた。
ウズメは外に走り出ていった。
私が見たものは、満足そうに微笑む赤い花嫁の姿。
母はやっと愛するものと結ばれたに違いない。
「こんな…ディアヌ様…」
ウズメが呻いているのが聞こえた。
「このような事あってはならない」
「母は、自ら父のところへ旅立ったのです。私は母が幸せになったと…」
キッとウズメがこちらを睨んだ。
「アルキュード家にこのような事があってはならないのです。ディアヌ様は王妃になられる御方、そしてジュール様あなたは、国王陛下なのですよ!」
「いいかげんにしろ!もう、何もかもたくさんだ!母は父を追い自殺した。私はただの私生児、おまえが今見ていたように、母をも救えないこの私が国民の上に立つなどと馬鹿げている。私はもう…」
ウズメが何かをポケットから取り出したのを見た。
それを私に無理やり飲ませようとしたのだ。
ゴホッゴホッ!!
「忘れなさい。この事は」
「ぐっ!」
抵抗しようと試みるが、手足が麻痺してきた。
そのまま雪の上に倒れこむ。ウズメが上から私の身体を押さえた。
肩に食い込む骨ばった指。
「いいですね、事故だと答えるのです。ディアヌ様は事故でお亡くなりになった。そして、あなたは国王の御子。
王位継承者。もはや、それ以外では生きられない身なのですよ!ディアヌ様のご無念、御子が叶えて差し上げなければ」
「誰か…」
誰か助けて…。
アンジュー公叔父上…。
私は一体なんのために生まれてきた。
誰かが愛し合い子をなしたわけでもなく、存在理由さえ人に決められて。
その時に流した涙は、きっと悔し涙だったのだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
空がうっすらと薄紅色を帯びてきた。
トトはまだ眠っている。
「兄上…」
受け入れて欲しい。
私の犯した罪を許してほしい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トトが行方をくらませてから数ヶ月。
やっとあなたを見つけた。
だが、あなたは知らない女と一緒にいた。
そして、私の目の前で口付けを交わした。
あの日、母が私にしたように。
…知らない女に奪われた。
私の心の一部が汚された。
「マクシミリアン陛下」
耳元に蘇るあの声。
おまえなんかいらない。
誰もおまえを必要とはしていない。
兄上!私の名前を呼んで!
嫌だ!あんな女とあなたが…!
私は、誰が憎いのだ?
トト、あの女、それとも父か?
見下げると、鏡が落ちていた。
そこには、私が映っていた。
私は私が一番憎い…。
消したくなるほどに憎くてたまらない。
鏡を踏み潰した。
欠片が一つ飛んで、手を傷つけた。
「私など消えればいい」
そこから先は、あまり覚えていない。
気がつくとトトとあの女がいた。
二人がなんでもないことは会話でわかった。
でも・・・もはや、私は生きていようとは思わなくなっていた。
私を受け入れないあなたへの報い。
私のそばに置いて、罪悪感で縛ってやる。
…トト、一緒にいたいだけなのに。
なんで、それが伝わらない。
私のした事は間違っている。
本当は、あなたに話したい。
あなたと話したい。
あなたが話してくれたように。
あなたに触れたい。
あなたが触れてくれたように。
時間を取り戻したい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ん…」
朝日が目に眩しい。
ここはどこだろう?
たしか…昨日は私のベッドに戻った…はず?
でも、いやに背中が痛い。
ここは、どこかしら?
誰かが手を握っている。
楽器を奏でるように優しく撫でてくれている。
誰なの?
顔を上げると、眩しくて上を見上げられなかった。
目を細めるとアイスブルーの瞳が光の加減でグレーがかって、もっと透明に見えた。
彼は外を見つめていた。
「ジュール…」
答えてくれるはずもないのに。
「ただいま、兄上…」
