-彼の魂に安らぎを-

-変化-/-想い出-

今日もジュールに本を読む。
私が好きだった絵本などがいいだろうと思った。
昔、母上がよく読んでくれた本だ。
医師は言った。

「この方の、心に負った傷を癒す事のできる方法を見つけなさい」

ジュールは、子供時代に優しい瞬間を知った事もあるかもしれない。
私は、そう考えていた。
だが。

どんなに優しい話も彼を癒す事はなかった。




ある日、イルミーネの王宮の片隅から音色が流れてくるのを、トトは聞いた。
そこには、20代後半くらいの女性がピアノを弾いていたのだった。
誰に聴かせるでもなく、偶然そこにあったものを懐かしんで弾いている様だった。
彼女はトトを見ると一礼したが、またそのまま弾きはじめた。

トトは、彼女の儀礼的過ぎない態度に好感を持ち、その場に残って演奏を聴き続けた。
演奏を終えると、彼女は王宮のピアノを勝手に弾いてしまった事を詫びた。

「私にはピアノを教えてくれる父がいたのですが、幼い頃に亡くしました・・・」
彼女は言った。
「それからは、母はその手一つで私を育ててくれたのです。私の家は貴族の家柄。しかし、暮らしは決して
豊かではなかった。それでも好きだったピアノを続けさせてくれた。母にはとても感謝しています。
その母も去年亡くなり・・それ以来、こうしてピアノをみると弾きたい気分にかられてしまいます。」

「いいよ、そのピアノは・・・今では誰も弾く人がいないんだ。君が時々弾いてくれたなら、ピアノも嬉しいだろうね」
そう、このピアノは父マクシミリアンの物だった。
昔、父が穏やかで優しい音色を家族に聴かせていたピアノだった。

「あなたのような方に弾いてもらいたいんだ」

トトは、それからその女性と打ち解けて話をしたのだが、驚いたのは彼女の率直さだった。
自分の人生を包み隠さず話すその姿に、トトは驚きを隠しきれなかった。

私は、これまで自分の弱いところ辛かった事を見せるのは、恥や弱さや卑怯な振る舞いだと思っていた。
しかし、彼女にはそのようなところは一つも見当たらなかった。
「どうして、そんなふうに話せるの?」
「事実だからです。今日、初めてお会いした方に私の事を知っていただきたいから」

私は今まで、辛い事を辛いと認めた事があっただろうか。
幸せを幸せと受け止めた事があっただろうか。

私は、どうすれば彼女のように伝えられるのだろうか?



-想い出-


今日も、トトがやってきて私の手を握った。

この人の手はなんと小さく柔らかいのだろう。
何度も、何度も、その手を握ろうとして腕を伸ばしたけれど、届くことはなく・・・。
こうした状況でなければ、この人は私のそばにはいてくれないんだ。

誰かが現れる前に、私が罪で縛り付けてやる。

これは復讐だ。

今まで、私を拒絶し続けたあなたへの。


トトが、たどたどしくピアノを弾く。
誰かに教わったらしい。
だが、はっきりいって聴かせるレベルではない。

-教えてあげるよ、弾き方を-

思わず口に出そうになって、身体を強張らせた。

私はショック状態なんかじゃない。
本当は、動きたくないだけ。
あなたがここにいてくれる限り・・・。

繋ぎとめておくための嘘が、どんなにあなたを苦しめていても・・・。


「ジュール様はご立派です」
「何一つ、欠点をお持ちではない」
「幼い頃から、なんでもお出来になって」

当然じゃないか。
それ以外には何も持っていないのだ。
父の慈しみも、母の愛情も。
心に秘めた温かい思い出すらもない。

兄が傷ついているのを見るたび言ってやりたかった。

「何もできなくていい。捨てたくない思い出の一つでも持っているのなら」

・・・だから、お願い。泣かないで。



愛情めいた寂しさの塊。
それが私だ。



ふらりと・・・一人で外へ出た。
出かけてくる、とは言ってある。
イルミーネからバストールに向かう道を、徒歩で歩く。

どのくらいかかるのだろう?

などと考える。
たぶん一日では着かない。
かの国の温かい海の風は、ここでは感じられなかった。

友はどうしているのだろう。
私が戻ったと告げられ、彼は笑ったそうだ。
「そうか。で、楽しめたのかな」
彼は、私がいなくなった理由を知らない。


街を出た。
野原が広がっている。
子供たちが遊んでいた。

「私もいれておくれよ」

皆がこちらを向いた。
急に現れた大人にどう対応したらいいものか、子供たちは戸惑っていたが、一人が
「いいよ。はいんなよ」
と言った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「陛下は、毎日毎日一体どちらにお出かけになられるのですか?」
リーチェ公夫人が菓子を持ってやってきた。
「秘密の場所なんだよ」
「まさか、いかがわしい場所なのでは?!」
夫人が眉を顰める。

「今の流行りは、たかオニと、ゴム飛びなんだ。私も早くうまくなりたいなぁ」
「は?」
「私が勝てるものと言ったら、指相撲くらいだから」
心底悔しそうな顔を見せるトトを、リーチェ公夫人は不思議そうに見つめている。

「大丈夫。危ない事はしていないから」
「そうですか、それでは・・・」
夫人は首を傾げながら、立ち去った。


毎日、歳の離れた友達と遊ぶ。

どうして、子供はうるさいなんて言うの?
自分が子供じゃない限り、そんな事は言えないよ。

思えば・・この歳の頃、友人と遊んだ事があっただろうか?
サンと出会う前の私。

父上の力になりたくて。
大人として認められたくて。
他の者に私を認めさせたくて。
強くありたいと、泣きたいのも我慢していた。

私は、子供時代を子供として生きてこなかった。
人間は、早く大人になるのが偉いんじゃなくて。
ちゃんと段階を経て、大人になるのが正常なのだと思う。

私は、子供時代をやり直している。
置き忘れてきた何かを学ぶために。




「そう考えたんだよ・・・今日は」

物言わぬ弟の傍らで語りかける。

毎日付きっきりでいるわけにはいかないが、できる限りそばにいたいと思う。
私にできる精一杯の事をしなくては。
目覚めたジュールが、私を恨み、何をしても、私は受け入れよう。
「今度またピアノを弾いてみよう。まだまだ下手だけど、ジュールは聴いてくれるかしら?」

冷たいジュールの手を握った。



-想い出-


今夜は冷える。
あの日を思い出す。

雪がまだ残る冬の終わりの頃。
父が死んだ。

臨終に立ち会うどころか、正確には、いつ、どうやって死んだのかを知ったのは、だいぶ後だった。

そう・・・あの日は・・・
あの日は、寒さで指がうまく動かず、手にしたリュートの音色が濁っていた気がする。



「国王陛下ご逝去。国王陛下がお隠れになりました」

家中が急に騒がしくなった。
やがて、この部屋にも召使いが走りこんできた。
「マクシミリアン陛下がお亡くなりになったそうでございます!」
まわりからどよめきの声。

うるさいのでリュートを弾きつづけていると、母の乳母ウズメの声がした。
「ジュール様、あなた様の御父上でございますよ」
「それで・・・私は次に何を言い、何をすればいいのですか?」
当然の質問だったが、まわりの者たちは一斉に顔を見合わせた。

ウズメが、うやうやしく私の手を取り
「これであなた様が国王陛下です」
と平伏した。
この狂った老婆にも飽き飽きしてきた。

「母上のところへ参ります」

そこで記憶を途切れた。





「ジュール、今日は・・・」

館に着いた時、彼はちょうど包帯を取り替えているところだった。
傷ついた顔が露になる。

「酷い・・・」

流血のわりには傷は浅いと医者は言っていた。
だが…
幾筋もとおった赤い線。
無我夢中で自らを葬り去ろうとした痕。

皆は、彼が誰かにこのような仕打ちを受けたと思っている。
手当てをしている女官にも、王室付きの医師にも、そのように言い含めてある。

しかし、私にはわかる。
この傷は心の痛み。
自らを責めて、恨んで、誰にも言えずに苦しんでいた証。

かつて、私も自分を切り裂きたい衝動にかられた事があった。
・・・この身体を透して、彼の苦しみが悲しみが。
そうせざるを得なかった気持ちが入り込んでくる。

思わず、自分の身体を抱きしめた。
傷のリアルが、私の目を覚まさせた。

私は自分の過去から彼を癒す方法を探してきた。
母の思い出、父の思い出。
私が泣いた時、母は私に絵本を読んでくれていた。父はピアノを弾いてくれていた。
・・・でも、ジュールは・・・。

堪えきれない悲しみを、一人で抑え込まなくてはいけない生き方をしてきたのだ。
私のように泣き叫ぶ自由もなく・・・。

初めてわかった。
彼は決して冷たい人物なのではない。
感情を表に出せなかっただけだ。
私は知らなかったのだ。
わかろうともしてやれなかった。
初めて会ったときから・・・なんで、彼の心を理解してあげなかったのだろう。
嫉妬し、僻んで、恐れて・・・。
ジュールは、いつだって私に声をかけていてくれていたのに。
そこには敵意など何もなかったのに。
アンジュー公の話を聞いた後でさえ・・・。

自らを傷つけた私からナイフを奪い。
アンジュー公にもらった薬を飲み込もうとする私の手を止めて。
サンへの怒りをぶちまけるこの手からワインを取り上げて。

冷たい、冷たいジュール。
私から何もかも奪っていく、憎いジュール。

彼が私にくれたものは、「父の王冠」だけだった。


・・・そうじゃない。

「どうして、何も言ってくれないんだ」

あなたに話す事など何もない。

「私は、いつでも自分の事ばかりで・・・まわりがいつも見えてなくて・・・だから・・・だから・・・こんな」

あなたは黙ってみていればいい。

「ずっと・・・」

ジュールが私を守ってきてくれていた事を、今更ながら理解した。
あんな遠くまで、私を探しにきてくれた。
昔、母上が言っていた言葉が頭の中によみがえってきた。
「本当にトトを想ってくれる人は、どんなに遠くにいても、離れていても、例え身分が違っても、必ずトトを見守って
くれていて、大事な時に助けてくれる」



「もう一度だけ話がしたい」

私ともう口をききたくないかもしれないけれど。
何もかもが遅すぎたかもしれないけれど。

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