-彼の魂に安らぎを-

-帰国-/-想い出-

壁掛け時計が時を刻む音がする。
それは自らの鼓動の音にも似て、トトは耳を塞いだ。

この空間から逃げてしまいたい。

手にした刃物で…
だが、肌に触れただけで傷さえもつけてはくれなかった。

ふぅと大きく息を吐く。
もう一度。

-つぐなえない…-


ジュールは、トトのベッドに寝かされていた。

部屋を取り囲む、恐ろしいまでの静寂。

彼は、死人のようにピクリとも動かず、そこにいる。
医師は彼を手当てし、鎮痛剤を打った。
しかし、その前から彼には意識がない。負った傷のせいではないという。
手や首、顔に至るほとんどの傷は、致命傷といえるほど深いものはなく、顔にかかる多量の血液は、こめかみの傷から流れているものと判明した。しかし、それも意識を奪うほどの量ではないという。
考えられる理由は。

「強い心的ショックによるものかと思われます」
医師は言った。
「ご身内の方ですか?何か心当たりは?」
トトは首を振った。

ジュールの事情や過去など知らない。
今まで、彼がどうやって生きてきたのかなんて…何も。

「この方は過去にも同じような経験をしているのかもしれない。こうした事例は過去にも数件確認されています」

“声をかけ続けることだ。”

医師は言った。
彼の心を傷つけた原因がわからない限り、それしか方法はないという。

今、ジュールは、生きながらにして死んでいる。




私のせいだ…。

死んで詫びれるものならば、何度でもこの命を絶つだろう。
遠出用の服装を見ると、彼は自分を探しに来たのに違いない。

こんなに遠くまで。

胸が潰れる思いだった。
傷だらけの弟。
ジュールを連れてきた猟師は「誰がこんな事を」と言っていたが、医者は何も返事をしなかった。

顔と首筋、腕と手にできた傷痕。
手首をちらりと確認した時に、おそらくは同じ事を感じたのだろう。
黙って手当てを続けた。

-この傷は、自傷によるもの-

自らで己の身体を切り裂いた。
医学的な知識がなくてもわかる。
過去、その行為をした者になら…。

悪寒が全身を駆け巡った。

特に顔の傷。

手足を自傷するのとは意味が違う。
顔は人間の存在そのものだ。
だから、めったに顔を切り裂く行為は見当たらない。
それなのに…。
彼には、生まれてきた理由さえ消し去りたいような過去があったというのか。

今まで、何も知らなかった。
兄弟なのに。


「うっ・・・」
瞳をつぶって刃物を首筋に当てた。

-つぐなえない!-

消えてしまいたい。
恐ろしい、目の前の現実が。
逃げたい。
すべてが圧し掛かってくるようだ。
逃げたい。

-逃げるな!裏切る気か!-

耳元に声が蘇り、手が止まった。
懐かしい声だった。
今より、もっと昔の。
子供の声だった。

-このオレを裏切る気か-

目の前に青空があった。
香り高い花々の匂いが身体いっぱいに広がった。
自身の吐く冷たい息さえ、湿ったかの国の空気に感じられた。


「生きろ、オレが認めたおまえ」


トトは、包丁を握る手を放した。
涙がこぼれた。

「私は死ねない。すべておまえのせいだ…」

なぜか笑みがこぼれた。

「おまえが息をしている限り、死なない」

何のために離れたのか。
こんなに遠くに来ても、なお彼は自分の一部として生きていた。
変わらず、私はサンを愛していた。





翌朝。

「あんたは、この人を連れて帰りな」
ユンが言った。
「…でも」
「あんたはここにいるべきじゃない」
「仕事は…」
「あたし一人でも、しばらくは大丈夫。それにもうじきしたら人を雇う予定だったの」
「そうなの」
「ね、トト」
ユンが目の前に立っていた。

「こんな事言ったら、あんたは嫌がるかもしれないけど、あたしはあんたに言うわ。
トト、誰でも小さい時はお姫様や王子様なの。でも、いつか皆、普通の人になって生きていくの。
自分のしたことに責任を持たないといけなくなるのよ。自覚しなさい。あなたはもう子供じゃない。大人なのよ」
母上が生きていたら、このように言っただろうか。
トトはふと思った。
そして、頷いた。


荷物をまとめ、扉を開けた。
朝日が眩しくて、暗い部屋の中を覗いた。
思ったより、こじんまりとしていて暖かな部屋だった。

「今まで、ありがとう」
「こちらこそ」

閉じかける扉を押さえて、ユンは遠ざかる荷馬車にむかって叫んだ。

「トト!かならず幸せになるんだよ!」

まるで挑戦のような口調だった。

ユンにはもう会えないだろう。
だからこそ「あなたもこの戦いに負けるな」と心の中で、トトはつぶやいた。
傍らには、人形のように目を閉じて横になっているジュールの姿があった。



-想い出-



私の曽祖父は、イルミーネ国の貴族でした。

野心家であった曽祖父は、自分の娘を隣国の王に献上しようと考え、そしてそれは成功したかに思えました。
この頃、バストール国の国王は若くして妃をなくしたばかりだったので、新たな妃を望んでいたのです。
正式には王妃は、他国の王女か、もしくは自国の上流貴族の娘から立てると決まっていたのですが、この代の
バストール国王は大変な漁色家としても知られていたので、ご自分のお気に入りを王妃に立てるかもしれないと
噂がたっていました。なので、我こそはと思う近隣諸国の貴族たちは、これを好機を考え、こぞって娘や親族の子供を王に引き合わせようとやっきになっていたのです。

曽祖父もこのような貴族の一人でした。
やがて、彼の望みどおり娘は王の子を懐妊。
この時、他の女性も王の子を身ごもっていたので、曽祖父は自分の孫が男子である事を願っていました。
しかし、生まれてきたのは女子。
私の母です。

その後、バストール国王の訪れはまったく止んでしまって、祖母と子供だった母は捨てられました。
そして、母は父のみならず、夫になるはずだった男にも捨てられた。
一方的に婚約を破棄した上、勝手に子供を成しておきながら・・・。
私の父も、私を捨てた。
どこの父親も身勝手なものです。
私は決して父親などになりたくはない。
家族などほしくない。
そんなもの知らないのだから。

遠くに見える暖炉の炎のように、ぼんやりとしか見えない。
手を伸ばしても届かない、温かさなど他人事のようにしか感じられない。

絆という鎖を、羨んで、拒絶して。

しかし、手を伸ばしたところに小さな子供が見えた。
家族をなくしたと、瞳に涙をいっぱい溜めて。
私の兄。
私の知らないものを知っている存在。
私を裏切らない唯一の存在。





懐かしい香りで身体いっぱいになる。
故郷の香りだ。

イルミーネの城下町が見える。


-私は帰ってきた!-


なぜか安堵した。
私を待ち受けているものが何であろうと、私は帰らなければならない。
国と民を裏切った。
そういわれて八つ裂きにされても。
甘んじて罰を受け入れよう。
私は間違っていたのだ。

捨てるべきは自分の執着心であって、信頼ではなかった。

早くジュールを送り届け、治療を受けさせなければ。
私を探しに来て、このような姿になった弟。

城門の前まで来た。
不思議と恐れはなかった。

「門をあけよ」
これが国王として最後の命令になるとしても。




ところが、私を待っていたのは人々の歓声。
真っ先に走りよってきたのは、驚くべき事にリーチェ公夫人だった。

「どちらに行かれていたのです、陛下!」
“陛下”と呼ばれるのもひさびさだ。

「皆がどれだけ心を痛めていたかわかりますか!」
そう言うと、彼女は私の胸に縋り泣き崩れた。
「ご無事でよかった・・・」

今更ながら、私は気づいた。
この人が私を今まで心配していてくれた事を。
この人は私を嫌っていたわけでも、傷つけようとしていたわけでもない。
国王たる国王になるために、この人なりの考えを持って接していてくれたのだ。

次にやってきたのは、セバスチャンだった。
「陛下!ご無事で」
この人も私を長い事見守っていてくれた。
ずっと厳しい瞳で、父に代わり私を正しい方向に導こうとしていてくれたのだ。

「皆が待っております」

皆が私を待っていてくれた。
私は・・・こんなにも多くの人に支えられていたのだった。

どうして捨てようとなんて思ったんだろう。
私はなんて器量の小さい人間なのだろう。


「アルキュード候!」
リーチェ公が悲鳴をあげた。
包帯に包まれて、生気を失っている我が弟。
「これはどういう事です。陛下!」
「彼は私を探しに来て、このような姿に…」
「誰がこんな酷い事を!候に刃を向けた者を探し出さなければ!」
夫人は叫んだ。

セバスチャンは私の返答を待っている。
私の表情に何かを読み取ったに違いない。

「遠くの街で、すでに刑に処せられた者の仕業だった。もはや裁くのは不可能だ」
私の言葉を聞いて、夫人は悔しそうに歯軋りをたてた。
不在中に何があったのかは知らない。
夫人は今までジュールを無視し続けていたというのに。

セバスチャンが口を開いた。
「候をお守りするようにと、部下に指示を与えていたのにも関わらず、このような事態をまねき、弁解の言葉もございません!どうかこの責はこの私に!陛下!」
膝を折ろうとするセバスチャンを留め、私は言った。
「おまえの責任ではないよ。すべては私の責任だ」

リーチェ公夫人は、そっとジュールの血の滲む手の甲に触れ
「我が国王陛下に最も忠実であったのは、この方です。アルキュード候こそ、陛下の一番の忠臣であられる」
と呟いた。




-想い出-

あの時、私は初めて私の家族を見つけた。
私の兄。
しかし、彼は私を避け、他の者に安らぎと信頼を求めた。

思えば、受け入れられる事ばかり考えていた。
私がいつも見守っている。
誰かと違って、あなたを裏切ったり傷つけたりしない。
私なら・・・。

それまで私の唯一の家族であった母は、父に裏切られた時から少しずつ狂っていった。
父を求め、愛し、憎み・・・。
彼女の人生はそれだけで終わってしまった。

私は狂わない。
私は冷たい瞳で、この世を見据え生きていく。
この空っぽの心を抱えたまま。

今、あなたが私の手に触れた。
あなたがわたしの世話をしている。
ああ、なんて気持ちがいいんだろう。

ここにいる限り、あなたは罪の意識に縛られて私のもとを離れない。

私は母のくり返しをしている。
そのたびに消えたくなるんだ。

このまま目覚めたくない。
私は“私”を生きたくない。
あなたの一部として生きていきたい。




リーチェ公夫人に聞いた。
あの日のジュールの行動を。
私を探しに行くと宣言した事。
自らの身もかえりみず、動いていた事実。

私が発した言葉は一言だった。

「・・・どうして」



今日も白い館に赴く。

ジュールが治療を受けている建物だ。
あれから何人かの医者に見せたが、何も変わらなかった。
ジュールは生ける屍のように・・・。 
目は開いていても視線は空を漂い、口は言葉を忘れたようだった。

「彼を目覚めさせる“キーワード”」を探して、私は彼を見舞うために通い続けた。



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