-流転-

―現し世―

高い山々が連なって見える。
山間の小さな村。
見えあげた時の空の色はイルミーネに似ていた。

目的地に着いた。

と、聞いた。


ユンはメモを取り出し、キョロキョロと辺りを見回しながら歩いていく。
トトは、その後を付いていく。
ユンが四角い建物に入り、その中の一室で男と何やら交渉している時も、書類にサインをしている時も、黙って見ているしかなかった。

「君はすごいな、一人で何でもできるんだね」
トトが言うと、ユンは何でもなさそうな顔をして
「そう?」

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「さぁ、明日からは忙しくなるよ!」
ユンは荷物を小屋に運び込みながら叫んだ。

「何をするの?」
「スパイスを売るんだ。屋台の店でさ。この山間の町だといい値で売れると思う。
前に知り合った人が食品卸してる人で、こっちにも品物を回してくれるっていうから話に乗ったんだ」
「へぇ」
どうやら、前から話はついていたらしい。
「ほら、ぼーとしてないで、片付けて!私達は今日からここに住むんだからね」
「え、うん…」

モップを持ったトトがノロノロとしているものだから、ユンは途中で怒りだした。
「やる気あるわけ?床はこうやって磨くの!」
細い腕のどこにそんな力があるのか、ゴシゴシと音をたてて、床を磨いていく。
「わかったよ」
と言って替わったものの、トトはこれまで掃除などした事がなかった。
掃除係がやるものとばかり思っていたのだ。

汗をふきふき、トトは呟いた。

「掃除って大変なものなんだね」
「あんた何言ってんの?王子様じゃあるまいし」
ユンのあきれ返ったような態度に、トトは思わず次に言いかけた言葉を飲み込んだ。

-もっと、掃除をしてくれる人に感謝しておけばよかった-

未だに、トトの中では時が止まってるようだった。



毎日、早朝に小屋を出る。
トトは、荷車に荷物を乗せて市場まで引っ張っていく。

力には自信がある…それだけ。

ユンは商売上手で、行きかう人々に気軽く声をかけては売り物を勧めていた。
トトはユンに言われるまま、スパイスや豆の量を測り、袋に詰めていった。
だが、慣れていないので時折こぼしてしまう。
そのたび、ユンが怒鳴った。
「なにやってんのよ!バカ!」
「ごめんなさい」
だが、ユンの怒りは帰る頃には消えて、コロッと笑顔に戻る。
「帰ろ」
「・・・・うん」

しかし、トトの耳には、いつまでもユンの言葉が棘のように残っていた。
だから、帰り道で声をかけられても返事もできない。

「どうしたの?」
ユンが聞いても黙り込むばかり…。

そして…
「今日は、悪い事をした。私はダメなんだよ」
夜寝る前に、申し訳なさげにこぼす。
ユンはキョトンとして「大丈夫?」と聞いた。


心の中で棘によってつけられた引っかき傷が裂傷になっていく。

-どうして誰もわかってくれないんだろう-

-サンだったら、わかってくれていたのに-

-あの人がここにいれば-



翌日。

「今日からはあんたにも売ってもらうから」
ユンの言葉に逆らう事もできず…。
ユンはトトの少し後ろに立って、笑顔を振りまいている。

「いらっしゃい…」

トトは小さな声で行きかう人に呼びかける。

「見ていきませんか」

誰も彼も、トトをチラリと見るだけで足を止めない。

「どうしよう誰も来ない…」
トトがユンを振り返ると
「バカ!あんたがそんなに暗い顔で小さな声で言っているからだよ!」
と怒鳴られた。
「ごめんなさい…私でも…一生懸命にやっているつもり…」
途端に息がつまった。

-ここにいても役に立たない-
-私はいらないのかもしれない-

怒られたら殴られる。殴られても誰も助けてくれない。

「何…」

耳元で声が聞こえてくる。
ずっと忘れていた、おぞましいあの声が。

-死ね!-
-おまえなんかいらない-
-死ね!死ね!死ね!-

影。

「グ…」

息がとまる。
手足が硬直を始めた。
「あ・・・」
体温が落ちてゆく。
もう立っていられない。

「どうしたの?!」
しゃがみこんだトトの背中を擦りながら、ユンが心配そうに声をかける。

「はぁはぁ!」

呼吸ができない。
身体が冷たくなる。
外から内から襲いかかる絶望。

「助けて…」
あの時、手を差し伸べてくれたのは誰?
「大丈夫ですか?」
「兄上…」

弟の姿が涙でかすんだ現実の向こう側に見えた。

ジュール。

誰も私を探しに来ない。
私はいらないんだ。


トトは気を失った。



「どうして?!」

近くでユンが何か言っている。

「私が何をしたっていうのよ!」
「ですから…」
年配の男性の声。
どうも医者のようだ。
「ショック状態が続いている。次からは十分に気を払ってあげてください」
「私は何もしてないよ!」

ドン!
テーブルを叩く音。
…ユンが怒っている。

「もう大丈夫…」
数分後、トトはベッドの中から手を指し伸ばした。
医者は薬を置いて帰ったようだった。
「あんた、どうしたのよ?…急に倒れて…死んじゃうかと思った…」
顔をくちゃくちゃにして、ユンはかろうじて声を出している。

この人は優しい人なんだ。本当は。

「医者は私が何かしたからだと言うけれど、そうじゃないよね・・?」
祈るようにトトの手を握り、彼女は震える声で目をきつく閉じた。
「私は、こういう、病気、なんだよ」
一言発するたびに胸が痛んだ。

数日後、トトは再び店頭にたったが以前よりは多少ましになった。
トトが呼び止めた客を、ユンがうまく誘導するような流れが出来つつあった。
それから、しばらくはうまくいっていたが…。


「どうしてそんな事をしたの?!理由を言いなさいよ!!」
ユンは人を射殺すような瞳でトトを睨みつけている。
「だって、困ってるって…言っていたから」
トトの言葉に、ユンは頭を抱え大きく溜息をついた。
怒りのあまり瞳が潤んでいる。

「理由ってね、その人の理由じゃないの。あんたがどうして客でもない物乞いに物を恵んでやったのか知りたい」
深く溜息をつきながらも背中を震わせて、ユンは爆発しそうな怒りを押さえ込もうとしているらしかった。
「困っているって言ってたから。すごく貧しそうで明日食べるものもないって。
私はそういう人を見放すわけには…」

バン!と大きな音にトトは思わずビクリと震えた。
テーブルに手をついて、ユンは怒鳴った。
「あんたがそういう事をしたおかげで、明日食えなくなるのは私達なの!わかってんの?
自分が何をしたか?ねぇ、あんたふざけてんじゃないわよ!」
その剣幕の激しさにトトは一言も発せられない状態だ。

「もういい。消えて」
「私、明日もっとがんばるよ。だから…」
「消えろ」
「…」

トトは、口元を押さえたまま小屋から出た。
だが、いく所もない。

小屋の裏側で星空を眺めながら思った。

-私は、悪い事をしたのだろうか-

あの人は衣一枚で震えていて、とても痩せていて、歳をとり、人に物乞いをして生きているようだった。
何かしてあげないと、あの人は死んでしまうかもしれない。
そう思って売り物の豆を分けてあげたのだった。
すると、あの哀れな人は涙を流して喜んでくれたではないか。

-私は、いけない事をしたのだろうか-

父の言葉が甦る。

-トト、いい王様は皆に平等に接する事のできる人なんだよ。困っている人がいたら手を差し伸べてあげなさい。
その人の手が汚れていても。困った人を助けてあげると、心が清らかになるんだよ…ー

-わからないよ-

もし、ユンの言うとおりなら、世の中とはなんと醜く辛い場所なのか。

-私は、それでも私を捨てたくないよ。たとえ世の中がこうであったとしても…-

だが、しかしそう考える自分は現実に背を向けているようにも思えた。



しばらくして・・・。

「入りなよ」
扉が開いて、ユンが泣きはらした顔で出てきた。
「いいの?」
「もういいよ。さっきはごめん、カッとなって」

そうして、二人はお互いのベッドに入った。

「ねぇ、あんたを見ているとわからなくなる」
ユンがポツリと言った。
「何が正しいのか」
「たぶんユンのほうが正しいんだと思う」
トトは答えた。
少なくとも彼女を怒らせ悲しませたのは、自身なのだ。
「ううん、あんたのほうが正しい」
とユンは言った。
「でも、正しいからといって生きていけるわけじゃない。本当は皆知っているのに…」
「…」
「これから、その考えを貫いて生きていくのは辛いよ、トト。それでも、きっとあんたは変わらないと思う」

ユンは隣のベッドに手を伸ばした。
優しく頬を撫でられて、トトは母を思い出した。
寝る前にこうしてよく撫でてくれたものだった。

「あたしは10歳の時に娼館売られたの。家族がたくさんいたし、女なんて金ばっかりかかるからさ」
「そんな!酷いよ!どうして親が」
「皆が生きていくためなの」

トトは黙り込んだ。
“守る”ための手段。
無闇に攻撃をしてはいけない、誰にでもわかる事だ。
だが、“守る”ためなら何をしてもよいのか。
ましてや、人の親が。

「そのような罪を犯して恐ろしく感じないのだろうか」
「目に見えない神様よりも人間のほうが怖いのよ。
‘いつか天国にいけるか’より、‘明日生きられるか’のほうが大事なの」
ユンは目を閉じた。

「トトのまわりの人は皆優しかったんだね・・・」

やがて安らかな寝息が聞こえた。



-私は恵まれていた?-

思い返せば、辛い時、悲しい時にはいつもそばに誰かがいてくれた。

サン、ジュール、セバスチャン、アンジュー公…。

私は捨てるべきではなかったのではないだろうか。
立場、国、人、そして信頼。

-私にできる事は何?-

大声を出して物を売る事?

-私がいるべき場所は本当にここなのだろうか?-

私は、どうすればよいのだろう。




次の日。
市場が休みだというので、ユンが外に誘ってくれた。
…とはいえ、郊外を散歩するだけ。
無駄な買い物をできるほど金を持っていない。

「近くに小川があった。そこへ行こう!」
ユンが手を引く。
昨日とはうって変わったような笑顔で。


「あれ、何だろう?」
道すがら、輝くものを見つけた。
軽いステップを踏んでユンが近づく。
「鏡!」
それを取り上げてトトの顔を照らした。
「まぶしいよぉ!」
「ふふふ!」
つまらなそうに鏡を投げ捨てて、ユンは再びこちらに戻ってきた。
「ヒビが入ってた。使えないよ。食器ならともかく鏡じゃね」
トトがふと懐かしそうな顔をした。

「どうしたの?」
「私の友人の事を思い出した…。少しだけ傷ついたものでも、彼は使っていたなぁって」
「私と同じ。ケチな人だったのね!」
「ハハハ…」

目的地は町と森の境にあった。
ユンは周りを見回してから、さっと足をあげた。

「わっ!」

トトがびっくりして声をあげる。
女性の振る舞いとは思えない大胆な格好でユンは靴下を投げ捨てた。
「入るよー!」
ジャバジャバと音をたてて、川の中を歩いていく。
「うふふ!冷たいー!」
川面に反射する陽光の中で見ると、彼女は思ったより幼い顔をしていた。
「ユン。聞いてなかったけど、きみはいくつ?」
「今年18!でも20過ぎたら聞かないでよ~」
「え!」
しっかりしている女性だと思っていたのだが、年下だった。
「トトはいくつ?」
「私はもう20過ぎてるよ!」
「えーうそー!同じくらいかと思ってた」
そして、初めて会った時のように、ケラケラと笑った。

「トトも入りなよ」
「うん」

バシャ!

「うわっ!」
いきなりユンが水を蹴り上げた。
「やり返してみなよ!」
「恐ろしくてできないよぉ!」
「恐ろしくないわよ!」
水浸しになるまで遊んだ。
何もかも忘れて。


そして、帰り道。


「あ、鏡割れてる」
ユンが叫んだ。
「本当だ。誰かが踏んだのかもしれないね」
光の破片は夕陽を映して、血のように染まっていた。

しばらく歩いていると、ふいに前を歩くユンが振り返り様に口をきいた。

「ねぇ、同じ姿の人を好きなるってどんな気持ちなの?」
「え…よくわからない」
返事に戸惑うトトに、ずいっと顔を近づけて
「私とキスしようか?」
ユンの言葉が終わる前に、優しい感触が口に触れた。



「…かたまらないでよ」
「・・」
「どうだった?」
食い入るように大きな瞳が覗き込んでくる。
「ごめん。自分とキスしてるみたいでよくわからないよ。変な感じ…」
「へぇそうなんだ?」

女性とキスしたのは初めてだった。
男性とは違う優しい感触、甘い香り。
でも…嫌じゃないけど、何も感じない。
どうしてこの人と自分が?
という感想しかない。
それは相手がユンでなくても、どの女性でも同じなのだろう。
感じる違和感。
対象を間違えてしまったような、おかしな感覚。

私は、やはりおかしいのだろうか。

ユンも出来心のつもりだったのだろう。すぐに笑顔に戻り、家路を早足で駆けていった。




その日の夜。

何事も起こるはずもなく、いつも通り終わるはずだった。
軽く食事をし、ベッドに入る。

ところが、この日は違った。

ドンドン!

突然、けたたましくドアが叩かれた。

「誰だろう?」
「酔っ払いだったら追い払って!」

多少怯えながら、トトは戸口に立った。
「どなた」
「早く開けてくれ!怪我人を連れてる!」
トトが何か言う前に、ユンがさっと扉を開けた。

「医者を!酷い怪我だ!」
一瞬のうちに血の匂いが充満する部屋。
猟師らしき男は、怪我人らしき人物を肩に担いでいた。
「たしか、ここから少し降りたところに医者が住んでいたわよね?」
「・・・」
「トト?!」

トトは信じられないものを見ているような顔付きで、立ち尽くしていた。
そして、猟師が床に降ろした男の、血に濡れた鈍い光を放っている金髪にそっと指をかけた。
露になる白い肌。
それもほとんど錆色の血液で汚れている。
彼の氷のようなアイスブルーは長い睫毛に隠されて見えなかった。

あの日。

親友が愛する人と結ばれた祝いの日に聞いた、鋭い制止の声も今は聞こえない。
あの時、ワインを取り上げた手も、今は力なく床に付いていた。

あの夜、たしかにこの身体を包み込んでいた彼の身体は、今では物のようにそこに落ちていた。

「どうしたの?」

トトの只ならぬ様子に、ユンは眉を顰め、足を止めた。

「ジュール…」
「もしかして知ってる…ひと」

トトは、首を振った。

「私の弟だ」



-第4章終了-

第4章までやっと終わりました。
この間、ずいぶんと休んでしまってすみませんでした(^^;)
他の作品の連載がはじまったり、しばらくシリアスを書きたくなくなるなど…いろいろと原因はありましたが。
一番の原因は、トト以外の主要人物が後半から登場しないという寂しさだと思われます。

この章は、個人的に第2章と比較して読んでいただきたい。
突然、世の中に放り出された時のトトとジュールの違い。
ジュールは同じ状況になった時わずか8歳でしたが、だいぶ世慣れしていた。末恐ろしい事に(笑)
彼は「何でもするから働かせてください」と言って始まりましたが、それとトトの「私は何もできません」と言うところから始めようとする姿勢には大きな違いがあります。
今回のトトはもろに世間知らずをひけらかすはめになったわけです。
どんなに悲しい事情があっても、今までのトトは自分で生きようとする感覚を知らなかった。

綺麗ごとだけでは生きていけない。
皆が優しくて幸せなのが一番だけれど、実際そんなうまくはいかない。
皆どうしてこんなに生きないといけないのかわからないけれど、それでも大概の人は死よりも生を選ぶ。
それを学びかけたところで、あんなにも世慣れしていたジュールが”精神の自殺”状態で現れた。
はたして彼に何があったのでしょう…と続きは第5章で。

ちなみにユンのモデルは、私が今まであってきた女性の上司(複数)です。
そう、今回のトトは新人時代の私でもあります。
今までした仕事の中で一番辛かったのが対面販売の仕事だったので。
しかし、その経験がこんなところに活きているんですね。


あと今更、話が戻りますが、第4章の前半の話。
大事なものが出来てしまったサングに対するトトの感情は愛情と嫉妬です(はっきりと)
しかし、恋愛感情ではない・・・。(この話のテーマの一つであります)
独占欲も、執着心もあるけど、恋愛対象じゃないってあると思う。
それにしてもジュリエットさんの人使いのうまさには脱帽。
女性の強さってこういうところにもあると思う。働く女性ユンとは違う意味で。
誰もを幸せにするための嘘がつけるって羨ましい。

トトはさっくりのってしまいましたが。

逆に今まで言葉なくしてうまくいっていたサングとトトの関係にズレが。

「あいつならわかってくれる」

信頼がどちらかに圧し掛かると、片方がいやおうなしに潰れてしまう。
人間関係はこれだから難しい。

トトも自分の性と、サングに対する名前をつけられない感情とでだいぶハチャメチャな行動をしましたが、これからは、もっとめんどくさいあの人が相手だ・・・・(笑)
次の章では、トトの現実とジュールの回想のストライプ状態になると思われます。

ここまで読んでくれてくれてた人がいたら、本当にありがとうございます!


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