トトの様子
そんな折、ひさしぶりにサングがやってきた。
「全然、会ってないじゃないか」
サングはトトに言った。
「だって君は結婚したばかりじゃないか。そんなに頻繁に遊びに行ったら申し訳ない!」
「おまえはいつから嘘を…つくようになった?」
サングの濃いブルーの瞳がすっと細められる。
「嘘じゃないよ」
そう言おうとした口が動かない。
かわりに
「君にも、ドリー嬢の名が伝わったのか」
唇が作り物のように動いたのを感じた。
「誰だ?それ?」
サングは先ほどの鋭さをしまいこみ、ワザとらしくおどけてみせる。
「私にも、とうとう彼女ができたという事さ!」
「そりゃおめでとう」
どちらにしてもあっけらかんとした会話だ。
「将来的には彼女を妃にしたいと…」
「やめたほうがいいんじゃないのか」
そっぽを向いたまま、サングはあくびをした。
そして、もう一度
「おまえ、嘘つくなよ」
「嘘なんかついてない!私は、私は、彼女が好きなんだ。彼女を悲しませたくはない。
まるで子供のように私を頼ってくれる。私は、彼女と接するたびに必要とされていると感じる。
昔、私が君の結婚に一言いったからと言って、私の選んだ人を否定するなんて!」
「おまえが、そこまでがんばるには何か理由があるんだろう。たしかにオレには関係ねぇ」

二人の間に沈黙が流れた。
先に口を開いたのはトトだった。
「暖かい暖炉の前で、たった一つの物を分かち合うような愛があると知った。穏やかで優しい愛だ。
彼女が教えてくれたんだよ」
「そうか、なら何も言わないさ」
「君は…私に何を見ているんだ?」
親友は、昔から洞察力に優れていた。この自分よりも。
「オレはな…おまえがまた戦っているように見えるのさ。昔みたいに、何か見えないものと。
血まみれで戦いながら、それでも“自分”っていうのを叫んでいるように見えるのさ。
よく見てみろよ、その顔を。自分じゃわからないだろうが」
「私が…戦っている?」
身を切り裂くような辛さ…痛み。
いつも白い館からの帰り路に感じる
心に吹き荒れる嵐。
「昔から不思議なんだよ。皆、おまえをわからない奴だって言うけど、トトってわかりやすい。
他にも誰かにそう言われないのか」
「見透かしている人はいるよ…いるんだ」
でも、その人の名を出すのは躊躇われた。
サングがいい顔をするはずもない人物だから。
「ところで、あいつはどうした?」
「え、知らない!」
咄嗟に答えて、胸がズキンと鳴った。
世界から音が消えてしまった。
ジュール…ジュール…。

「おい、トト?」
「ん、あ、なに?」
サングは、いつの間にか少し離れた所にいた。
「少し庭を散歩していいか?」
「うん」
見透かされはしなかったか。
私の心を占めた存在に。
おまえが、もっとも憎む人の名を。
悟られはしなかったか。
サングは、その後、何事もなかったかのようにいつも通りに振る舞い、昼食を共にし、
ドリー嬢の名を一言も出さないまま、帰っていった。
夜。
一人。
樹に咲いた小さな花を見ていた。
手にはグラス。
ああ…と息が声を持った。
あの方との日々が思い起こされた。
かつて、私に愛の醜さと罪深さを教えてくれた相手だ。
アンジュー公は、いつもこうしてグラスを傾けながら、密やかな溜息をついていたものだった。
あの方の愛が間違っていたと、どうして言えようか。
たとえ、誰も幸せにしない愛だとしても。
しかし、私はやはり彼のようには生きたくない。
サングは戦っていると表現した。
まさしくその通りだ。
私が想う人は、人を愛する醜さを最も知っている。
その結果、生み出された苦しみこそが彼なのだから…。
ワイングラスに涙が一滴、零れ落ちた。
それでもジュールに会いたい。
だが、もしジュールが私を求めているとしたら、それは
“ジュールを決して愛していない私”なのだろう。
強くあらなければ…。
この心の隙を与えないほど。
決して、あなたを愛すまい。
あなたが求めている私が、そのような私ならば。
私は、彼が少しでも生きていることに幸せを感じてくれるよう、そばにいたい。
ほんのわずかな時間でも悲しい過去を忘れられるならば。
私は強くあらねば…。
トトは、自分が涙を止めどなく流しているのも気がつかず、そのままバルコニーに出た。
きっと…酔っ払っている。
だから、こんな事を考えているのだ。
と、トトは考えた。
レオーネは、待ち合わせの時間よりもだいぶ早くに王宮に着いてしまった。
昨日と今日は、トトに剣術を習う予定になっていた。
だが、昨日は鍛錬の後で、トトが酷く酔っ払ってしまった。
今日は大丈夫なのだろうか?
困った大人だと思ったが、まぁいろいろと慣れている。
しかたがないだろう…。
最近のトトは、よくアルキュード候の話をする。
「ジュールはとても面白い人なんだよ」
アルキュード候が休養しているという噂は聞いていた。
彼は、その休養中になんと医師の免許を取ってしまったという。
「自分の身体の構造に興味を持ったんだって…」
「それで、私は言ったんだよ。医者になるつもりなのかと」
続けざまにトトは言った。
まさか、王の弟にあたる人が一般の医者になるとは思えない。
トトも、なかなか面白い考え方をする人なのだ。
「だけどね、酷い事にジュールは医者としてやっていくつもりはないんだって。
どういうつもりなんだろう?」
トトは、プリプリとしながら頷いた。
「それにしても、すごいですね!短期間で医師の免許を取得するなんて!
コツを教えてもらいたいものです。…ハハハ」
「ジュール嫌味なんだよ。頭がいいからって!」
またもトトはプリプリした。
先ほどから、トトはアルキュード候を悪し様に言っているが、嫌っているようには見えなかった。
「お二人は仲のよいご兄弟なんですね。私には兄弟がいないから羨ましいな」
さっとトトの顔色が変わった気がした。
その後、トトは酒を飲んだ。
私が困るくらいに、酔いつぶれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私が兄を愛したからか…」
いつか聞いた声が蘇る。
今、ようやくわかった。
アンジュー公の気持ちが。
愛してはならない相手を愛した彼の想い。
トトは、幾晩か続けて酒を飲み続けていた。
私は…
ジュールを愛していない。
でも、存在を強く求めている。
私が今まで愛した人はサングだけだった。
だから、サング以外に向ける気持ちに、どういう名前をつけたらいいかわからない。
私は、ドリー嬢を愛しているとサングに言った。
きっとあれが“正しい愛の形”なのだろう。
けれど、そう思う毎に身を引き裂かれるほど辛くなる。
そんな時は、重なるようにジュールの腕を思い出す。
あのまま時間が止まってくれればいいと思った。
ジュールは私のそばにいる。
ずっと離れる事なく。
そこには、性別も兄弟であるという事実も、ジュールの感情さえ存在していない。
ジュールと共にいられる私がいるだけだ。
あの後、ジュールは
「落ち着かれたか?」
と聞き、私の額を撫でた。
そうして、腕を離した。
まるで何もなかったかのように。
現実とはあまりにも違う自分の中の欲望が、おぞましくて悲しくて。
「私は、望んでいない!何も!」
自分に向かって叫んだ。
ジュールの匂いが身体から立ち上ってくる。
あの時に少しでも触れ合った肌から。
理性という殻の中から、欲望だけが外に弾き出されそうだ。
トトは、自分を戒めるように両腕で身体を締め付けた。
「トトの奴がおかしい」
バストール王宮に戻ったサングは、妻のジュリエットを傍らに呼んだ。
「何かございましたか?」
ジュリエットは、あの婚礼の夜からトトには会っていなかった。
優しく、過敏で、強い人だった。
おとなしい顔の中に、自分を苦しめてしまうほどの強すぎる意志を持っていた。
「あの方は、ご自分に正直な方ですから…が、宮廷とは・・」
「正直なら、正直に生きればいいじゃないか。どうして遠慮する必要がある?!」
怒るサングをジュリエットは宥め、心の中だけで思った。
-今、トトが抱えている問題は、我が夫を苦しめるものなのかもしれない。-
でなければ、トトは真っ先にサングに相談するだろう。
-ひょっとしてアルキュード候の事では…-
ジュリエット自身も、サングとアルキュード候の不仲について理解していなかった時に、
つい彼の名を出してしまい、サングを不機嫌にさせた事がある。
「トト・・・・あいつなんか変だよ。あいつ、つまんねぇよ」
そっぽを向いたまま、サングは呟いた。
「ところで、今度アンドレアが戻ってまいりますの。ぜひともあなたにご挨拶をと、望んでおりますのよ」
「アンドレア嬢といえば、たしか、きみの伯母にあたる人…だったかな?たしか、きみと同じ歳だったような…。
よその国を旅していたとかいう!」
サングは、こちらの話題には乗ってきた。
先ほどとは違い、子供のように瞳を輝かせている。
「ええ、そのアンドレアです。祖父は海外取引の時には、彼女を必ず伴い学ばせているようです」
「ほー!そりゃ楽しみだ!」
この人は、外の世界の話が大好きだったわ。
ジュリエットは苦笑した。
でも、トトの話が頭の片隅から離れない。
「トト様も早くお元気になられるとよいのですが…」
「あいつ結婚するらしい」
唐突すぎる発言だった。
「え、それは存じませんでした。お相手は?」
身を乗り出して、あえて興味があるような振りをしながら、ジュリットは聞く。
夫の返事はわかっていたが・・・。
「知らない奴だ」
「でも…おめでたいお話」
「そうだな、めでたいな!本当にめでたいさ」
投げやりにサングは答えた。
ジュリエットは、自らの夫の中に、自分でも立ち入れない部分があるのを知っている。
その一つが“トト”という領域であった。
今のこの人は、まるでトト様が私を訪ねてきた時と同じだわ。
ジュリエットは思った。
あの時、トト様はこの人を愛していた。
どういう形であれ、愛していた。
この人もきっと同じに違いない。
永遠を誓う伴侶がそばにいても…。
二人は、断ち難い絆で結ばれている…。
普段は、気丈なジュリエットだが、この時ばかりは眩暈を覚えた。
夫は…
自らの幸せを手に入れたにも関わらず、トトが幸せを手に入れるのは認めないのか。
二人の間にある絆とは、互いが決して逃れる事ができない重い鎖のようなものなのか。
「あなた、トト様がそれをお決めになったのなら、せめて、あの方のお幸せを願いましょう」
サングは答えなかった。
黙って、窓の外を見つめていた。
雨が降り始めていた。
二人の間の沈黙を雨音がかき乱した。
ジュリエットは、サングがもっと奥の部分まで見透かしているような予感を覚えたが、
あえて何も聞かなかった。