―婚礼(下)―
イルミーネ国王のために用意された部屋の前で、ジュールは立ち止まっていた。
-私に何ができる?-
-何が言える?-
どうせ、また私は拒絶される。
トトは一人で夜通し泣いて過ごすのだろう。
「勝手にしろ」
そう言いたい気持ちもあった。
でも、そんな自分がとてつもなく嫌になる。
-どうすればいいのだろう-
もしかしたら、もう寝ているかもしれない。
トントン・・・
そう思い、意を決して扉を叩いてみるが、反応がない。
このまま去るべきだろうか?
すると、部屋の中でガタンと大きな音がした。
嫌な予感がして、部屋に入ったジュールが見たものは…
空になったワインのビンを床に転がしているトトの姿。
「なあに?」
どこか焦点のあっていない眼差しで、不思議そうにジュールを見ている。
「ジュール来たのかい?おまえも呑む?ワインもらったんだよ」
ヘラヘラ笑いながら、トトはビンを直接口に当ててゴクゴクと飲み干した。
「白を呑んでから、赤を呑むとロゼみたいな味になるんだよ!」
もう一つのビンを手に持ち、また口に運んだ。
「兄上!」
ジュールは、以前トトの手からナイフを取り上げた時のように、ワインのビンを取り上げた。
「返せよ!」
ジュールは首を横に振る。
そのまま、トトの手が届かないところまでワインを持つ手を上げたので、トトはジュールに飛びかかった。
「返せよ!」
トトが暴れるので、ジュールは仕方なく最後の手段にでた。
「なにすんだよぉ!!」
トトの足元に注がれるワイン。
大理石の床がたちまち赤く染まっていく。
「ああっ!」
トトは床にしゃがみこんだ。
顔を上げ、ジュールをキッと睨みつける。
「どうしてこんな事をした!」
「どうしてこんな事を、と聞きたいのはこちらの方です。なぜ、このような事をなさるのか」
眉を顰めながらも、ジュールは極めて落ち着いた声で答えた。
「おまえになんかわかるものか!!」
トトは叫んだ。
ジュールの胸に両手を打ちつけながら、叫び続けた。
「どうして!どうして!!」
「兄上…」
「私とサンは友達だった。親友だった。誰も間に入れないくらい完璧な関係だった。
運命により定められていた仲だった。あいつが私を裏切るなんてありえない。
ずっとずっと、私は信じていたのにっ!」
トトは声をあげて泣きじゃくった。
馬鹿みたいに嗚咽を上げて泣き続けるトトに、ジュールはなすすべもなくじっとしている。
「どうして私のそばにサンがいない?ずっと一緒だと誓い合ったのに。
私達の命は一つだと思っていたのに、どうして?」
トトの瞳が憎悪を映し出す。
「どうして、あの人と彼が一緒になるんだよ?
どうして私を捨てるんだよ?
どうして?」
「くっ・・」
ジュールは胸倉を強く掴まれて呻いた。
「どうして、私を冷たいなどと言うんだ。
ずっと一緒にいたのに。誰よりも私をわかっていてくれていると思っていたのに!
私が誰のためにこんな私でいたと思う?
あいつがそのままでいて欲しいと言うから…」
トトの身体が崩れ落ちた。
ジュールはとっさに彼を支えた。
「兄上、横になられては…」
ジュールはトトを抱え、寝台へと移動した。
トトは、どうしようもなく壊れていた。
ベッドに降ろし、横たえると閉じた瞳から涙が零れ落ちた。
「だいじょうぶ…?」
こんなに乱れたトトを見たことはなかった。
「…」
返事がないので、寝かせたまま立ち去ろうとすると、背中越しに擦れた声が聞こえた。
「ここにいて…」
いざなう手。
ジュールはトトに寄り添うように横になった。
すると、トトはジュールの胸に顔を埋めて泣いた。
今度は苦しそうに声を殺して泣いているようだった。
「トト…」
そっと背中に手を回すと、トトの身体がビクリと揺れたので手を止めたが、トトが一層身体を寄せてきたので、そのまま背中を撫でながら抱き寄せた。
-ああいう人を選ぶからこういう目にあうんだ!-
ジュールは唇を噛み締めながら思った。
思い出したくもないバストール国王の勝ち誇ったような笑顔が、目の前に見えた気がした。
しかし、口から出たのは別の言葉だった。
「一緒にいる。気の済むまで泣けばいい」
「…っ」
トトの嗚咽が急に止まり、いやいやと言うように首を振る。
「違う!私はそんなに弱くない」
こんなに涙にまみれて言う言葉だろうか。
ジュールは呆れながらトトの頭を撫でた。
「弱くたっていいじゃないか」
またトトは首を振った。
「強くなければ存在する価値などない。それが彼と私の仲だった」
サングと言う名の強さが、今までトトを支えていたのだから。
でも…
「あなたは昔と何も変わらない。それでいいんだよ」
死を願って泣いていたトトと、今も泣いているトトと。
「おまえに何がわかる!私達の関係の何が!」
「何もわからない」
ジュールの声は冷ややかだった。
「でも、目の前であなたが泣いているのだけはわかる」
トトはジュールの顔を見た。
いつもと同じ、氷のようなアイスブルーがそこにあった。
「…おまえに何がわかる」
呟きながら、トトは再び激しく泣きじゃくった。
「独りぼっちだ…独り…」
「何も知らないくせに」
「そばにいて…独りは嫌だ」
言葉を繰り返しながら震えるトトを抱きしめながら、ジュールはアンジュー公の事を考えた。
あの人なら、なんと言うだろう。
求められているのは私ではない。
私でなくてもかまわない。
この人が本当にそばにいて欲しいのは…。
サングがいない今、トトを救えるのはアンジュー公だけなのかもしれない。
たとえ、どういう弊害があったとしても…。
トトが求めているならば。
私よりは、あの人がここにいるべきだ。
なのに、どうして叔父はこの私に行けと言ったのだろう。
先ほどまで激しく泣いていたトトだが、さすがに酔いが回ってきたと見える。
悲しげな瞼を震わせながら、うとうとし始めた。
ジュールは、トトの額に張り付いた髪を指で掬ってやった。
瞼も唇も赤く腫れて、眉間には深い皺ができていた。
いつも夢に出てくる彼とは別人のようだ。
あの夢に出てくる者は、トトと似ていて否なる者だった。
こうして間近で見ると、本当に違う。
雰囲気、匂い、肌の感じ…。
艶かしい雰囲気などはまったくなく、そこにいるのはただのちっぽけな男だった。
ここに至って、ジュールは初めて考えた。
-私は兄の何になりたいのだろう-
-兄に何を求めているのだろう-
ジュールにとって、兄と過ごす夜の夢は、例えて言うなら性的欲求を満足させるための本のようなものだった。普通の男ならば、女の姿を見て、そう感じるのだろう。
だが、ジュールにはそれができなかった。
女性に対して、その手の欲求を抱けなかった肉体的欲望の向かった先が、身近な所にいる兄だと思っていた。
いつまでも汚れを知らない子供の世界で生きている兄を、羨ましくも憎らしくも思っていた。
汚してやりたくて…。
でも、実際、こうして寄り添っていると欲情めいた気持ちは沸いてこない。
涙に濡れた頬に触れた。
柔らかい…。
赤く腫れた口に触れた。
熱を持っているようだった。
どういうわけか、ずっとこのままトトを見ていたかった。
頬や唇に触れながら…。
月が欠けてきている。
何一つ物音がしない。
ひんやりした風がベッドの隙間から入ってきた。
そのうち、ジュールの中で憎らしいような…形容しがたい感情が沸きあがってきた。
抑えきれないくらいの苛立ち。
こんな事は初めてだった。
サングに苛立った事が何度もあるが、あれは単純に”嫌いだから”だと思う。
トトには嫌悪の情は持っていない。
なのに…。
口からいつの間にか声が漏れていた。
「…何もわかっていないくせに…」
トトと同じ台詞。
「…何も知らないくせに」
苛立ちを隠すように、ジュールは手を握り締めた。
何かを叫びそうになり、息を殺した。
「…それは私のほうなのに」
トトの身体を壊れるほどきつく抱きしめた。
「…っ」
トトの呻き声が聞こえる。
こうすれば伝わるだろうか?
言葉に出来ない私の苛立ちが。
苦しそうなトトの顔を上げさせ、夢でしたのと同じように、唇を吸った。
強く揺さぶって壊してしまいたかった。
この味を忘れないように、もう一度口付けた。
全てに対する復讐だと思った。
そう思ったはずなのに…

この世の誰よりも優しく抱きしめてあげられるのは、ここにいる自分一人だと言いたくて。
一晩中、トトの身体を包んでいた。
-朝日が眩しい…-
ジュールは傍らの温もりを確かめようとして、腕を伸ばした。
「トト…」
しかし、手に触れたものは冷たいシーツ。
「兄上…?」
寝台のカーテンを開け、部屋を見回す。
トトの姿はどこにもない。
胸騒ぎがして机を見ると、そこには黒い束が一つ、手紙が一つ置いてある。
ジュールはおもむろに束を手に取ってみた。
それを撫でながら、手紙を開ける。
「私は、ずっと彼と共に生きてきました。
イルミーネ国王としての私、それを生んだのは私の母ではなく彼です。
ならば、彼が私のそばを離れた今、どうして私がここにいる必要があるでしょう。
私の世界は全て失われてしまったのです…」
ジュールはその文面を見てはっとした。
今、彼の手に触れている感触。
黒い束の感触は昨晩ずっと触れていたものだった。
トトの髪。
イルミーネ貴族の習慣として、長く伸ばした髪を切り落とすという行為は、世を捨てる事を意味する。
いわば、存在上の死に等しい行為なのだ。
「どうして…こんな…トト…」
ジュールはわけがわからず、手紙を握り締めたまま、部屋を飛び出した。
行きかう人々が驚いた顔で振り返る。
いまだ誰も、こんなに理性を失ったふうのアルキュード候を見た事がなかった。
大きな扉の前で、ジュールは係に止められた。
「お通しするわけには参りませぬ!」
「扉を開けろ!バストール国王を出せ!」
「しかし…陛下は王妃様と…」
「チッ…」
ここに来た事を後悔した。
結婚初夜の男女の寝室。
吐き気がする!
兄がいない!
トトが、トトがどこにも!!
ジュールは踵を返し、国王の部屋に戻った後、セバスチャンとリーチェ公夫人を呼んだ。
二人が来る間、トトの髪を握り締めた手が汗を含んで震えているのに気づいた。
-彼はあんな人のために!-
こういう事情がなければ、あそこにジュリエット妃がいなければ…
あいつを殴り飛ばしてやるものをっ!
ともかく彼を探さなければ。
「冷静になれ、冷静に…」口の中で何度も唱え続けた。
やがて、セバスチャン・デティオール卿と、リーチェ公夫人が現れた。
「アルキュード候が急のお呼び出しと聞きましたが、一体?!」
セバスチャンは顔色を変えて尋ねた。
「用事があるならば、そちらが来られるのが筋というものです!」
リーチェ公夫人が不快感を表しながら言った。
「お二人ともこちらへ」
普段は敵同士と言っても過言ではない二人を呼び寄せたのには理由がある。
「国王陛下が出て行かれました」
ジュールの言葉に、二人は顔を見合わせる。
「それは?!」
「どういう事なのです!」
「今すぐに探しださなければならない。しかし、陛下のご決心はそうとうなものだ。
おそらくはもうこの国にはいらっしゃらないだろう」
「なんですと!」
「しかし、なぜ候はそれを?」
「…昨夜、陛下とお話を。そして朝になって訪ねてみると、このような…」
ジュールがトトの髪を見せると、二人は声を失った。
馬を全力で駆けさせれば、もう国境を越えている可能性が高い。
昔、イルミーネからバストールに流れた時の距離感がそう告げていた。
「ただちに兵を集め、捜索を!」
「夫人」
リーチェ公夫人が立ち上がるのをジュールは止めた。
「まず、私が言う事を聞いてください」
セバスチャンはじっとジュールを見ている。
「大事にしたくない。ここはイルミーネではないのです。陛下が出て行かれたのは一時の感情の昂ぶりによるもの。このような事で国を揺るがすのは避けたほうがいい」
「しかし、こうしている間にも陛下の身に危険が及ぶかもしれません!ただちに動かなくては!」
「夫人、しばし待たれよ!」
セバスチャンが夫人を止めた。
「うるさい!デティオール卿、そなたにはわかるまいな。危険にさらされているのは、私の甥の子なのですよ!
私のたった一人の身内なのですよ!」
金切り声をあげて、リーチェ公夫人が叫んだ。
瞳に涙を滲ませながら。
ジュールはその様子を見て、ふと我にかえった。
まわりに感情を露にする人間がいると、冷静に立ち戻れたりするものだ。
彼女も、彼女なりにトトを心配していたのだ。
ただ、極端に視野が狭く、また極端に鈍い感性の持ち主なので、それがうまく伝わっているとは思えないのが
残念でならない。極端なまでに真っ直ぐな人なのだった。
夫人に落ち着くように言うと、セバスチャンはジュールに尋ねた。
「して、アルキュード候。あなたはどのようなお考えをお持ちか」
「まず、こちらの国王とアンジュー公に協力をお願いし、陛下はしばらく休養されているという事にする。
そこで、お二人にもご協力をお願いしたい」
「陛下のお身柄は?」
「少数の信頼できる者たちを指揮して、この件にあたらせる。そして、私も…」
「候、自らが動かれるのはお待ちください!」
セバスチャンが言った。
「あなたまでいなくなったら、この国はどうなるのです」
ジュールは一息ついた。
「ですから、この国の事、陛下の事を第一に考えていらっしゃるお二人にお願いしているのです。
私が陛下と共にいた最後の人間なのですから、私にも責任がある。
それに、私がもし一人この国に残っていたなら…それこそ、まずいのではありませんか?」
国王不在を狙ったアルキュード候擁立は、本人が望まなくても起こりうる事態だった。
「この国を本当に思ってくださるのなら、私を行かせるべきだ!」
私が、あの人を見つけ出す。
見つけてみせる、絶対に。
ジュールは瞳を閉じ、念じた。
「さっきから聞いていれば、アルキュード候。それはそなた一人の考えではありませんか」
リーチェ公夫人は苛立ちながら言った。
「だいたい、アルキュード候…あなたはいつから私に命じられる立場を手に入れたのです?」
「夫人!」
セバスチャンが制止する。
リーチェ公夫人が、ジュールを王家の一員として認めていないのは周知の事実だった。
彼女からすれば、アルキュード候ジュールは、ただのイルミーネ貴族の一人にすぎない。
「別に命じてなどいません」
ジュールは言った。
「しかし、今は私の言葉に従っていただく!」

それから1・2時間後、用意をしたアルキュード候と数人の者たちが城門から馬に乗り、外の世界に出て行った。
一向を城郭から見送っていたリーチェ公夫人は呟いた。
「あの方までいなくなったら、イルミーネ王室はどうなってしまうのでしょう」
「おや、今の発言は、アルキュード候を王家の一員として認めたという事ですかな?」
セバスチャンの皮肉に、リーチェ公夫人は顔を赤くして反論した。
「違います!私は王家を憂いているだけです!!」
そうしてプイと向こうを向いて歩いていった。
それにしても…
セバスチャンは遠くへ去っていくアルキュード候の背中を見て、思った。
違う…顔はマクシミリアン陛下に似ておられるが、後姿がまったく違う。
それにあの強さ。
イルミーネ王家のものではない。
バストール王家の強さか。
王家の者に「従え」などと…。
そういえば、アルキュード候の祖父は前々バストール国王だった。
トトも幼くして王位に付き、国を二分する勢力に翻弄される人生を負わされたが、もう一人の王子は、さらに数奇な運命を辿ってきたのだ。
セバスチャンからすれば、アルキュード候ジュールは、なるべくならいてほしくない存在だった。
それに、故マクシミリアン国王を悩ます種でもあった、あの私生児を正直苦々しく思っていた。
しかし、あの強さがあれば、彼は自分の人生を切り開いていけるかもしれない。
少なくとも利用されるだけの立場には留まらないだろう。
敵となれば、アランソンよりも恐ろしいが、味方となれば…。
兄弟が争う心配よりも、手を組ませる努力こそ、私がすべき事なのかもしれない。
セバスチャンの後ろに数人、男達が現われた。
「デティオール卿、我らはどのように?」
「おまえたちは、万が一何かが起こった場合、アルキュード候を守れ」
「は・・」
二人とも失うわけにはいかない。
そうですよね、国王陛下。
夕陽の沈む空を見上げたセバスチャンは、そこにマクシミリアンの影が見えた気がした。
ここは、どこだろう?
もうバストール国でないといいが…。
耳のした辺りで切り落とした髪のせいで、風が首筋に冷たくあたる。
バストール国を全力で駆け抜けた。
馬に乗れなかったのに、なぜか乗る事が出来た。
何をしてでも、ここから逃げ出したかった。
別に振り落とされて死んでもかまわない…。
目の前を横切るバストールの情景と、そこにいたはずの二人。
私の人生は君と共にあったのだ。
もう誰もいない草原。
初めて出会った森。
遠くに見える、走り回って遊んだ花畑。
食べ歩きをした街。
最後の別れとなった白亜の城。
何もかも失ってしまった。
私にとっては、もう何も意味をなさない。
トトは涙を振り払った。
影の声すら聞こえてこない。
からっぽの心だけを抱えて。
隣を見ると、サンが笑っている。
「旅に出るのかい?」
「ああ」
「そりゃいいね、オレも」
実際、そこには誰もいないのに…。
「どうして、私の隣に君がいない…」
友が隣にいたら絶対にしないような情けない顔で、トトは呟いた。
もう一度呟いた。
「なんで、きみがいない…」
こんなにも愛していた。
こんなにも求めていた。
信じていた。
たぶん、私がいなくなったらイルミーネ国王はジュールになるのだろう。
どうせ、私など誰にも求められていない。
君だけが認めてくれていた。
それなのに…。
私達の関係に勝るものなどあるのか?
あのままでは、いけなかったのか?
ならば、私は君とどのような関係を築けばよかったんだ?

やがて、太陽が世界を照らし始めた時。
トトは、まったく知らない街にいた。