-運命-
―やさしさの向こう側:下―
「マクシミリアン陛下は、きっと後悔していると思うよ。
ああ、そういえば噂に聞いた。彼は結婚以来、妃の寝室には近づかないと。
王妃もお可哀想に。若いうちから男に飽きられるとはね。
あの二人は、きっと、もう寝ていないよ。
まぁ一応息子を授かったのだから、喜んでいるのかな?マクシミリアン陛下は。
でも彼は、きっと幸せではないはずだよ。
あれから、ずいぶん思い悩まれているご様子…。
ディアヌ姉様は、こんなにもお美しいのに、自分を卑下されている。
いけない事だ。
真実の愛とは奪い取ってでも手に入れるもの。
マクシミリアン陛下への想いが本物ならば、何かを壊す事などなんでもないでしょう?
姉様の愛は本物だったのでしょう?
ああ…陛下の本当に愛しておられた相手は…姉様、ディアヌ姉様ただお一人なのだよ。
私だけが知っている」
姉は瞼を震わせ、顔を覆った。
続いて、白い手で錠剤をつかんで口に入れた。
「姉様、それは私があげた薬とは違うものみたいだね…そんなに辛いの?」
「あの薬では眠れないのよ。もう…」
私達は抱き合った。
お互いの想いを噛み締める様に。
人工的な陶酔の中で見る夢は、決してかなわない夢。

「ジュールと口を聞きました」
トトは言った。
その時、どうしたらよいかわからず薬を飲んだ事。
弟の気持ちが受け入れらない事などを告げると、アンジュー公は黙って抱きしめてくれた。
しばらくして、トトは涙を拭うと「父上の話を聞かせてあげたほうがいいでしょうか?」と聞いた。
「マクシミリアン陛下の…?」
アンジュー公の表情が曇る。
「彼は父上を知らないようなので」
「知ってどうなるというんだい?ジュールは今まで父の顔さえを見た事なかったのに。
今更、興味を持つとは思えないけれど」
アンジュー公の声は、こわばっていた。
心の底から恐ろしい獣が目覚める予感がし、彼は震えた。
「しかし、私達を繋ぎとめるものは、それしかない」
「トト…」
見えているのは子供の顔ではなく、遠いどこか…。
「彼が父親にどういう感情を持っているのか、知っているのかい?君は幸せだったのだろう。
ああ、幸せだったのかもしれないけれど、あの子は、ジュールはね・・・」
「はい。ジュールは父上を憎んでいると思う。でも、だからこそ、本当の姿を伝えたい。
きっと父上も悩まれていたのだと思う。私の知っている父上はそういう方だった」
マクシミリアンが…。
あの男が人のいい笑みを浮かべて、どんなに気軽く他人の人生を踏みにじってきたのかを、この子は知らない。
だが、アンジュー公の頭の中に違う光景が思い出されていた。
「きみがジュバルトの弟君。なるほど、お兄様とは違って繊細で真面目そうだ」
「それはないだろう、マックス」
ジュバルトが弟のレイチェルを紹介した時、おどけて笑ってみせたマクシミリアン。
「きみもそんな堅苦しい格好をしていないでさ、もっと楽にすればいい。僕達はもう仲間なのだからね」
…仲間…
不思議にも心地いい響きの言葉だった。
後で、ジュバルト兄にマクシミリアンが弟を追放した事を聞いた。彼の意思ではなかったという。
それなのに、マクシミリアンは何もかもを壊した。
-あんたのせいで、何もかもめちゃくちゃになったんだよ!-
一瞬、マクシミリアンに微笑んでみせた自分の顔が浮かんで消えた。
-永久に許さない-
口の奥に血の味が広がった。
噛み切ったようだった。
苦い苦い味。
「じゃあ、教えてあげるよ。君の父上がした事と、ジュールの事。
君が…そんなにジュールを想ってくれるのなら、私も本当の事を話そう」
その日、トトは朝になっても寝床から起き上がって来なかった。
女官たちは困り果て、リーチェ公夫人を呼んだ。
「陛下、いかがされたというのです!」
不躾にも寝床に勝手に入り、トトの顔を覗き込んだリーチェ公夫人でさえ、声を失った。
その顔は青ざめ、今にも死んでしまいそうだった。
目は開かないほど赤く腫れ、ブルブルと大きく震えていた。
「ひどい熱!」
夫人はトトの額に手をあて、叫んだ。
「医師を、早く医師を呼びなさい!」
このところ、イルミーネ近辺では流行り病が発生し、農村部に被害がでていた。
国王も慎重に調べられたが、原因はショックによる発熱との事だった。
「どうにも、落ち着かれるのを待つより他はないでしょうな」
「そのようないい加減な事では、どうにもならないではありませんか!
陛下の御命がかかっているのですよ!」
医師のたよりにならない返事に夫人は苛立ちをぶつけた。
夫人と医師の声が聞こえてくる。
でも、もう立ち上がれない。
なんて不幸で悲しい物語。
アンジュー公の怒りと憎しみの全てが、悲しみとして感じられるのだ。
「ディアヌ姉様は、いつも寂しそうだった。
私の父とアルキュード候の娘との間に生まれたディアヌ姉様は誰にも愛されずに生きてきた。
あのように優しく美しいのに…。
私は、姉様の存在を知った時、兄妹としてお互いを認めようと誓い合ったのだ。
ジュバルト兄上以外は、どの子供も同じ立場だから。
そこに、ディアヌ姉様をマクシミリアン陛下の妃として進める計画が持ち上がった。
一部のイルミーネ貴族の思惑によって。
でも、ディアヌ姉様はマクシミリアン陛下を愛してしまった。
本気で愛していたんだよ。人を愛するという気持ちがどんなに苦しいものか、それもわかっておくれね。
…君の父上にも立場や考えがあったのかもしれないが、ディアヌ姉様の心を深く傷つけたのは事実だ。
成婚の一月前に、突然、手紙一つよこして一方的に婚約を破棄したのだから。
それでも、姉様はマクシミリアン陛下を恨むどころか、愛し続けた。…だから、私は・・・・」
アンジュー公は、この人には珍しく、煙草に火をつけて一息吐いてから、意を決したような口調で言った。
「もう一度、マクシミリアン陛下を取り戻すようにと・・・姉を慰めた。きみが生まれてからの事だ」
-どうして…?-
言おうとした言葉は出なかった。
「マクシミリアン陛下を想うディアヌ姉様の気持ちを想えばこそ。でも、私はあの男が許せなかった。
きみの父上は、私の姉だけではなく、ジュバルト兄上の人生まで狂わせてしまったのだから!」
サングの父上だと思った。
「そうさ、マクシミリアンは何も考えてはいなかった!ジュバルト兄上とリリー・ポイズンを引き合わせ
皆が反対していたのにも係わらず、リリーとの結婚を認め、その子供を王子にした。
結果として、リリーに魂を抜かれてしまった兄上は彼女の死とともに消えてしまった!
あの人が思いやりのある優しい人だったばかりに…。
兄上の人生は、もっと輝かしいものだったはずなのに。私がそうさせるはずだったのに!」
アンジュー公の振り絞るような言い方に、トトは一言も返せなかった。
「あの男は、私が唯一愛した人を汚した!
だけど、ディアヌ姉様のために・・・私はマクシミリアンと彼女を引き合わせた。
トト…私のした事は間違っているだろうか?いや、間違ってなんていないだろう。
それなのに、マクシミリアンはそうして出来た自分の子供をも捨てた。
だから、ジュールは父をこの世でもっとも憎んでいる。
わかっただろう。ジュールには父の話をしないほうがいい。
それに、いくら君たち兄弟を繋ぐ絆とは言っても、もう死んでいる人を出して何になる」
トトは、一瞬背筋が凍ったような気がした。
話をするアンジュー公の顔に笑みを見つけたからだ。
-この人は、父上が死んだ事を喜んでいる?-
声が出ない。
トトの中で、アンジュー公が実兄を愛していたという事実は、そう重くなく受け止められるものだった。
だから、この人は私を”一緒”だと言ったのだ。
恋愛の対象など、どこのどういう人でもかまわないはずだ。
たとえ、それが実兄であったとしても。
おぞましさを感じたのは他の部分だった。
「愛」という名の罪悪。
それだけは、この世で許される罪悪の名。
-ただ、誰がを愛したから-
そういえば、何もかも許されてしまうというのか。
トトは、自分の中に浮かんだ考えを否定するように首を振った。
本当に人を愛するという事は…まだ体験した事がないからわからないけれど、違う気がする。
アンジュー公は、トトの沈黙を違う意味にとったようだ。
「私の想い人が兄では悪いかい?でも、事実なんだよ。私は、彼のためなら何もかも捨てられる。
自分の地位も人生も。彼のためなら、何でもできる」
「ちがう!」
「君は、まだ人を愛するという事を知らない。だから…」
「ちがう!そんな愛ならば、欲しくない!」
「トト…」
願ったのは、愛するアンジュー公と幸せに過ごす一日だった。
私は、この人が好きだ。今でも。
トトは思った。
しかし、私は彼といるべきではないし、彼もまた私と歩むべきではない。
「トト。いつか君にもわかる。全てを捨てて生きる苦しみと悲しさ、孤独。それが愛する人のために選択する道だと」
「私は、そんな選択はしません。私は、愛する人と結ばれなくとも、その人がもっとも愛してくれるだろう私の姿をその瞳に焼き付けるように生きたい!たとえ、そのために愛を踏みにじる事になろうとも!」
それは、たぶんアンジュー公への想いを断ち切った瞬間であった。
トトは、ベッドの中で押し寄せてくる感情の波と戦いながら、これを一つ一つ心の檻に閉じ込めていった。
長く辛い作業であったが、どうにか立ち上がれるまでにはなった。
「アンジュー公からお手紙が参っております」
数日後、係の者がそれをトトに手渡した。
トトはそれを開封する事もなく
「アンジュー公のもとに参る」
と言った。
どうして、あの子にあんな事を言ったのだろう。
アンジュー公は部屋の中で、トトを待っていた。
あの子は、人の心の奥深くを曝け出させてしまう…。
いっそ汚して、共に地獄を見せたい。
いや、あの子といれば、私は…。
何事にも頷いて、好奇心を見せるトトの姿が瞳に焼き付いている。
私も変われるかもしれない…なんて考えたのはなぜだろう。
一方でトトが憎らしかった。
あの日、トトははっきりと拒絶をしめした。
君に受け入れられたいと思ったんだ。
それなのに、嫌われた。
誰も彼もが私から離れていく。
…この愛ゆえに。
ジュバルト兄上。
時を戻したいのです。
あなたがいて、皆が元通りだった頃に。
なのに…どうして誰もいないのだろう。私以外に。
ジュバルト兄、マクシミリアン、ルイ、ディアヌ姉、リリー…。
罪だけが残って、愛だけが去っていった。
あなたを愛していた。
もはや願い事も夢も叶わない。
自分が生きているのが呪わしかった。
アンジュー公は手にした常備薬を飲んだ。
水は苦々しかった。
アンジュー公は、いつものように館の部屋で待っていた。
トトが来たのを見て、ソファにかけるようにすすめたが、トトは入り口でじっと立っていた。
「トト、許しておくれ。私はきみに嫌われても仕方のない人間だ」
アンジュー公の寂しげな表情を見て、トトは動揺したようだった。
「私は、あなたを嫌ってなんていない」
「でも、避けている」
「嫌いだからじゃない」
「では、何に怒っているのか教えて欲しい」
「怒ってもいない」
「なら、どうして私から逃げようとするんだい?」
近づいてくるアンジュー公の腕を振り払って、トトは後ずさった。
「あなたが幸せではないからです」
「私は、幸せだよ」
「いいえ!あなたは幸せではなさそうだ。私はその理由を受け入れる事ができない」
「トト…」
慰めるような笑み。
でも、その裏側にある途方もない悲しさ寂しさを知った今になっては、もはや受け入れられない。
「私は子供だから、大人の事情はわからない。そして、受け入れる事もできない。
まだ、そんな器を持っていないのです。ごめんなさい…」
トトは顔を伏せた。
アンジュー公の絶望も怒りも悲しさも見たくなかった。
「私が兄を愛したからか?」
空に放たれるような声。
「ちがう。あなたが誰を愛そうと私には関係ない。でも、誰も幸せにしない愛を私は認められない」
「君にもいつかわかるさ、愛してはならない人を愛したなら」
「ええ、たぶん。でも私は自分の想いに負けたくない。私はこの世で最も大切な人に愛されている。
その人の信頼を裏切らないためにも、私は生きる事をあきらめられない。いつかきっと幸せになってみせる」
黄金の太陽がそばに輝いているかぎり。
「大切な人とはサングの事か」
「ええ」
「友を愛しているのか?それとも友としてではなく?」
「この世で最も大切な人が友達ではおかしいですか?」
「そこまで想うのなら、愛情なのだろう」
「ちがう。でも、それでいい」
だって、私の愛した人はあなたなのだから。
今だって好きなのだから。
あなたに教わった事、楽しい思い出、優しい時間。
忘れられるわけがない、捨てられるわけがない。
トトの瞳に涙が溜まったのを見て、アンジュー公は思わず手を伸ばした。
その手に慰められれば安心できると知っていて、拒絶した。
「あなたの優しさは悲しすぎる」
「トト…」
「さようなら、もうお会いする事はないでしょう」
トトは館の外に出て、もう一度振り返った。
窓辺からは優しい光がもれていた。
思わず口ずさんだ。
「あの人は、まるで夜…」
その闇は深くて、冷たくて。
でも、人はその中で眠りにつく。
静寂な優しさ。
あの館の生活感のなさは、もう来ないであろう誰かを待つためだけの物だから。
いない人のための理想の空間。
生きた人間の住む場所じゃない。
「あなたはそんな生き方をしていい人じゃないんだ」
あなたは、誰よりも優しい人。愛する事を知っている人。
だから、自らの罪の代償にジュールを育てたのでしょう。
一番言いたかった事は、とうとう言えなかった。

アンジュー公の館から戻ったトトは、風邪気味のサングに手紙をしたためた。
「早く元気にならないと遊べないよ」
南国の果物とともに、送られてきた手紙を読んだサングは苦笑した。
「まったくもって、冷たいやつだよ。まぁ、人に気を使わせる優しさも持っていないところが気に入っているがな」