-運命-

―やさしさの向こう側:上―

「今日も、行くのかい?」
「うん!」

サングを視線を背中に感じながら、トトは走り出した。
今日も、あの方に会える。
その喜びを感じながら。


その人はいつもどおり、屋敷の応接間のソファに座っていた。
トトの訪れを知ると、みずから出向かえ、入り口で再会の喜びをこめて優しく抱きしめてくれるのだった。

「よく来てくれたね」
「はい、またお邪魔いたしました。アンジュー公」

バストール国に来ると、トトは日の出ているうちはサングと過ごし、日の落ちた後はアンジュー公の屋敷に赴くのが習慣になっていた。

「さぁ、入って」
手招きを受けて、屋敷に足を踏み入れる。
アンジュー公という人は、美しい姿だけではなく、身のこなしも話し方も優雅だった。
ドア一つ開けるのにも、召使に何か命じる時も、全てが一つの調和した雰囲気を持っていた。

トトがソファに腰掛けると、彼は召使にワインを持っていくるように命じた。
「今の季節は、軽めの白がいいね。何かよいものを選んで持ってきておくれ」
「はい」
召使が部屋から出て行く。
トトは、いつもこの部屋とこの人に、自分には持っていない雰囲気を感じていた。
そう…ここには家庭がないのだ。
だらしない暖かさや、無造作な曖昧さなどがまるで感じられず、全てが洗練されている。
フローラルの香水、いつも違う花が生けてある花瓶、塵一つ手垢一つないテーブル。
目の前に座っている人の着こなしにも隙など一つもなく、少しばかり気崩している時も普段とは違う華やかな魅力が加わっていた。

「さぁ、乾杯しよう」
グラスを持つ人の手によく似合う華奢なグラスを手に持ち、アンジュー公は言った。
「イルミーネ国王陛下に」
「今夜のあなたに」

ワインが喉に流れ込むと、陶酔的な気分になる。
知らない世界をますます覗いてみたくなるのだった。

アンジュー公は自ら料理も考案しているらしく、ワインに合う食事を用意していた。
どれも、がさつさなど感じさせない洒落た盛り付けがしてあり、手を付けるのがもったいないほどだった。
彼は、もともと食が細いらしく、夜はワインとこのような軽食…たとえば、オリーブの酢漬けを2個ほどで終わらせるらしい。
もちろん、トトは出されたものを全て食べた。
しかも帰ったあと、バストールの王宮でパンなど夜食を頼んでいた。
でも、それは秘密だ。
自分が、そんながさつな人種だと思われたくなかった。

トトは、たまに少しばかり何かを摘みながらワインを飲み静かに話をするこの人に、憧れていたのだ。
そして、自分もそうなりたいと思っていた。

「ジュールの事をよろしく頼むね」
アンジュー公は言った。
「はい…」
と言いながら、トトは少し下を向く。

実は、あれ以来まともに弟と口を聞いていない。
どうも話しにくくて、しばらくそのままにしていたら、ますます機会を逃してしまっていた。
彼に対する誹謗中傷の類は予想した以上には起こらなかったので、そのせいもあったのかもしれない。
弟は、以前のようにイルミーネ宮廷に溶け込んだ。

「私は彼のために何もしてやれなかった。自分の無力さを悔やむばかりだ。
ジュールは私の弟のようなものだから」
「いえ、私も彼に何もしてやれなかった。私は彼の兄なのに」
トトが悲しげに目を伏せると、アンジュー公は諭すように
「だからといって、サングを恨まないでやっておくれね。あれは可哀想な子だから」
と言った。
「…」

あの事件があって、知ってしまった友の心の闇。
でもサングは…。
「サンは、どんな状況にも打ち勝てる強さを持っていると思う。きっと彼なら…」
私は、友を、強さを信頼する。
トトは言った。
しかし、アンジュー公の意見は違った。
「そうかな?トト陛下がそう思っているのは、サングにとって重しではないのかな」
「え?」
彼の優雅な手付きは動きを止めない。
「彼をもっとまっすぐ受け止めてあげたほうが、彼にとって幸せではないのかな。
トトが彼の親友なら、彼の痛みを理解してあげなさい」
「でも…私は…理解している…でも」
「こういうのもなんだけど、トトは暖かい家庭を知っているだろう。当然のように父がいて、母がいて。
家族の幸せを知っている。でも、きみは本当の寂しさを知らない」
「私…」
「私の父国王もいたるところに女を作っていてね。母が毎日泣いているのを見て、生きてきたんだよ。
その中でジュバルト兄上だけが皆の支えだったのに…」
アンジュー公の声が一瞬下がったのは気のせいだったのだろうか。

「トト…」
ふと見ると、いつの間にかトトが大粒の涙を流している。
「私も、父上と母上を亡くしました。愛されない寂しさはわからないかもしれない。
でも、失った悲しみはわかるつもりです」

アンジュー公はトトを包み込んだ。

「すまない、辛い事を思い出させてしまったね」
「いいえ、いいえ、大丈夫。あなたの悲しみに比べたら…」

アンジュー公の腕は暖かかった。
でも、彼の言った「可哀想な子」という言葉が、胸に小さな針を刺されたように残っていた。



「最近、おまえどうしたの?」
沈んだトトの顔を見て、サングは聞いた。
「…人を好きになるって辛いね…」
続いて出るのは溜息ばかり。
「な!とうとうアンジュー公を襲ったのか!変態!」
「ぷハッ!違うよっ!どうしてきみはそう物事をシリアスに考えられないんだい?!」
「しょうがねぇだろ!合理的な考えしかできないんだから!」

いつの間にか笑っている。サンといると。
だが、大好きなアンジュー公といる時、私は泣いてばかりだ。
あの方の悲しみ、苦しみが伝わってくるようで。
詳しくどういう事情があるのか知らない。
でも、彼がいつも浮かべている儚げな悲しそうな笑みの裏には、何か深い意味がある気がする。
あの方は苦しみとともに生きているのだ。


15歳になったトトは酒を呑む事もできた。
イルミーネ国でもバストール国でも15歳からアルコールが解禁になる。
サングはその人柄に似合わず、アルコール類をあまり好まなかったので、一緒に呑む事は少ない。
トトが、いつも一緒に呑んでいたのは大人のアンジュー公とだった。
彼は酒を選ぶセンスもよく、トトは教えられる事ばかりだった。

もう何時間たっただろう…。
いつも、彼と呑む時は呑みすぎてしまう。
「大丈夫、トト」
そっとアンジュー公が近づいてきた。
フローラルの華麗な香りがふっと包み込む。
「トト、あなたはとても可愛いね…」
腕の温かさを感じた。
「・・・」
頭がぼおっとしている。

「いつまでも、私と一緒にいようね…私を一人にしないでね…」
夢うつつに、アンジュー公の囁くような物静かな声が聞こえた。


最近、とても胃が痛い。
酒を呑んでいるからだろうか。
バストールに行くと昼はサングと遊び、夜はアンジュー公に招かれる。
毎回そのパターンだ。
たまには夜もサングと遊びたい。

ある日、その意思をアンジュー公に伝えたが、返ってきたのは意外な返事だった。

「どうして?」
アンジュー公は相当ショックを受けたようだ。
「きみは、夜は一緒にいると約束してくれたよね?」
「あ、でも今日はサンと約束…」
「きみも私を裏切るのか…一緒にいたいとそう言ってくれたのに」
美しいアンジュー公の表情が凄惨に歪んだ気がして、一瞬、トトは背筋が凍った。
「でも、私は約束したんです!」
きっぱり言って、トトはその場を去った。


「なぁ!なぁ!」
「・・・」
「聞いてんのか、トト?」
「え・・・」
先ほどから、トトは何か考え事をしていて、チェスの手が進まない。

「今日のおまえ、つまんねぇ!」
「ごめん、アンジュー公の事が気になって」
「叔父さんと約束してるのか?」
「いや、今日はそうじゃないけど」
「トト、叔父さんはとてもいい人だけれど、あまり大人の事情に首を突っ込まない方がいい」
「何、それ?」
「いや、あの人もいろいろあるからさ」
それ以上サングは語らなかった。

夜もだいぶ遅くなってから、トトは気まずさを引きずったままアンジュー公の屋敷を訪ねた。

「ああ、トト来てくれたんだね!やっぱり来てくれると思っていたよ」
入り口でアンジュー公に抱きしめられ、トトは胸を撫で下ろした。



それからも、アンジュー公に会う日々は続いていた。

ある日、彼はジュールについて語った。
「あの子は可哀想な子なんだよ。父にも母にも愛されずに。一人ぼっちで生きてきたのだよ。
だから、彼が間違った事をしても許して差し上げてね。彼は愛する事を知らない」
「ジュールが…」
…そんな感じはする。
しかし、彼の中にはもっといろいろな感情が秘められているのではないだろうか。

「彼の母、私の姉はね、薬を飲んでいたのだよ。正気を失うような強い薬を。
だから、ジュールはずっと一人だった。私が面倒を見るまでは」
「…」
ジュールから一言もそんな話を聞いた事がない。
話さなかったと言うより、知られたくない事なのかもしれない。
酒のせいか、胸が痛くなってきた。

「きみとジュールは兄弟かもしれないが、生きる世界が違うんだよ。あの子のためにそっとしておいて」
「それでも、私は私の弟と思っています。いつかわかりあえる時がくると…」
「傷つくだけだよ」
言葉が、痛む胸に突き刺さった。

「ねぇ、知っている?あの子がきみに興味を持っている事を?」
「え?」
「ジュールは、兄上様とお話したいそうだよ」
「なら、どうして傷つくなんて…」
アンジュー公の考えがわからない。

「事実は先に知っておいたほうがいいと思って」
その横顔に変化はなかった。

「きみは幸せな子。ジュールは不幸な子。それが事実だ」


幸せというのは、こんなにも惨めなものだったのか。
私は幸せである限り、誰の心の中にも入っていけないのだ。
トトは、知らず知らずのうちに自分の悲しみを探すようになっていった。



「最近のおまえ本当におかしいぞ?」
「…」
毎日、毎日頭がぼおっとしている。
昨日もアンジュー公を訪ねて、昔話をして泣いた後、ソファに寝かされずっと撫でてもらっていた。
呪文のように聞こえてくる「私と一緒にいてね」という言葉。
ふと気づくと、アンジュー公は悲しい顔をして違う方向をみていた。

「なぁ!」
サングの大きな声に夢から引き戻される。
「おまえ呑み過ぎなんじゃないのか?」
「う…ん。きみはアンジュー公の事を何か知っているの?」
「え?叔父さんの事?」

サングは溜息を一つついて黙った。
いつもの彼らしからぬ態度だ。

「トト、あの人に悩みがあるとして、おまえに解決できる問題じゃないと思うぞ」
「わかっている」

またしばらく黙った後、サングは口を開いた。
「おまえはおまえのままでいい。オレは、そのままのおまえが好きだよ」




今日はトトが来ないのか。
アンジュー公は昔のアルバムを開けていた。
そこには、兄ジュバルト、イルミーネ国王マクシミリアン・・・そしてルイ・クレランスが映っていた。
-この中に、どうして私がいないか知っているかい?-
自身に問いかける。
-ジュバルト兄をマクシミリアンが奪ったからさ-

マクシミリアンと付き合い始めてから、兄は変わってしまった。
それ以前も街に降りる事はあったが、まだ何も知らないイルミーネ国王の反応が楽しかったのか、兄は裏通りの店に入り浸るようになっていった。
そうした怪しげな店の一つを訪れている時、そこで踊っていた異国民の女リリーと出会い、兄はリリーとの恋に狂った。そうしてサングが生まれ、リリーが死に、ジュバルトは何もかも捨てて消えた。

-それとともに、私の人生は終わってしまった-
私は、兄のために全てを捨てて生きてきた。
兄の邪魔にならないようにと王位継承権さえ捨て、兄の汚点にならないようにと、狂うような自分の想いを封じて現世からも遠ざかったはずなのに。

私が愛するジュバルトのために何を捨ててきたのか、誰か知っているのか!


「アンジュー公」
「ああ、トト」

トトは、いつもの部屋でアンジュー公を見つけたのだが、彼のあまりに悲しく恐ろしげな表情に声をかけるのを躊躇っていた。

「アンジュー公、あなたは今お幸せなのですか?」
「どうしてそう思う?」
「いえ、なんでも」
「私はとっても幸せだよ。トト」
その笑顔を向けられると、胸がつまるのはどうしてだろう。


「トト。実はね、私には以前とても愛して人がいたのだよ」
「そうなの…」
いつものように酒を呑んでいる。
彼はポツリと言った。

一瞬ショックが胸を突いたが、ふと現実にかえり、彼ほどの歳ならば昔そのような事があってもおかしくないと思った。
酒のせいなのだろうか…頭が働かない。

「私もきみも同じだね。同じように幸せの中では生きられない」
「私も…恋をしています。男性が好きなのです」
「ああ、知っていたよトト。きみも私もずっと一人だね。きっと、きみも一人で生きるのだよ。
だから一緒にいようね」
「はい…」
「この先、どんな事があっても汚い女共に騙されないで。一般的な幸せなど形だけのものだから。
本当の幸せとは愛する人と一緒にいる事。たとえ結ばれなくても…それを忘れないで」
「はい…」

この人に対する想いは、興味から憧れに変わり、崇拝にまで高められた。
アンジュー公の白い手を頬に当てながら、花の香りに身を包まれて夜を過ごす。
私は男の身体が好きだ。
以前は、この人に触れたいと思っていた。
でも、今は違う。
肉欲と違うところにある想いが宿っていた。

「あの人はまるで夜そのもの。
月のような白く薫り高い手で、私の心を弄ぶ。
暖かさは悲劇に、優しさは狂気に変わる。
けれども、一度絡め取られた甘美の鎖から、抜け出す事は難い。
なぜなら、私もすでにそこの住人だと知っているから」

トトは、たしかに優しさに包まれていた。
だが、表情は順々に重く暗くなっていった。




「兄上」
「え?」

夜会にて。
トトは、恐ろしく控えめに自分を呼ぶ声に気づいた。
今日はサンが風邪をひいていて出席していないので、その声が誰かわからず、まわりを見回す。
すると、頭一つ分背の高い少年がこちらに向かってくるのが見えた。

「おかげんはいかがですか?」
躊躇いがちに口を聞くのはこの人らしくない。
彼はいつもはっきりとした口調で話していたのに。

「…ジュール」
昨日の酒がまだ残っているようだ。頭が痛い。
酒も睡眠薬も安定剤も飲んだのに。

「あまりお酒を呑まれないほうが」
ワイングラスを持つ手が震えているのを見て、ジュールが呟く。

あの一件以来、彼に話しかけなければと思いつつ、彼を避けていた。
ちょうどアンジュー公に彼の話を聞いたからというのもあったが。

なるほど彼は「不幸な子」なのかもしれない。
アイスブルーの瞳からは暖かみをまるで感じない。人形のような顔。

とたんに自分を包む不遇の事実を突きつけられた気がして、気分が悪くなった。

悲しみを外に吐き出したくて、アンジュー公を探す。しかし、彼は夜会に来ない。
しかたなく薬をポケットから出した。

早く、早く飲まなくては…!
苦しい、頭が狂う。
震える手で薬をケースから鷲掴みにし出すと
「いけない!そんなものを飲んではっ!」
ジュールが手を止めた。
「なんで…」
「あなたなら乗り越えられるはず。あなたは私とは違う」

一瞬、ジュールの言葉がアンジュー公の言葉と重なった。

-きみは私と同じ-…

凍れる瞳は、あいかわらず優しさを映していなかった。
冷たい、心を突き放す色をしていた。




「また薬を飲んだんだね」

酒を呑むトトの肩を抱いて、アンジュー公は言った。
「私が勧めたものだけれど、身体にあっていてよかった」
「はい…」

トトは薬とアルコールの二重の眠気に襲われ、瞳を閉じた。

これが私の恋。
親友にも知られない世界。
これが私の恋。

私は、きみよりも恋をよく知りたいそれだけ。


アンジュー公はトトをソファに横に寝かせた。
額を撫でながら考えた。

どうして、この子はあんな思いをしてまで、まっすぐに立っていられる。
母を亡くし、父を亡くし、父の裏切りを知り、弟と争う運命を与えられ、宮廷の者から嘲られて。
あまつさえ、この子の嗜好には未来に孤独以外の何者も待っていないと知りながら。

酒も薬もそれほどの想いを消すために存在しているというのに。
この子は変わらない。なぜ?
無知なのか、純粋なのか?
この強さに惹かれつつ、途方もない憎らしさを感じる。
この子には私の醜さを見せられる。
そうさせる何かを彼は持っている。

皆、きっと彼の前では全てをさらけ出してしまうのだろう。
この子にはそういう力が備わっている。
それと同時に全てをわからせ、汚したいという欲望をも掻き立てられる。

この子に認めさせたい。この子を独占していたい。
この気持ちは愛でも恋でもない。
私が遠い昔に捨ててしまった何かを、トトが持っているから。

いつか、この事に気づく人間が現れるだろうか?

ふと、アンジュー公の脳裏に自らの育てた甥の顔が浮かんだ。
同じ寂しさを知るジュールに、トトを取られたくなかった。
いっその事、罪悪の茨で縛って手元に置きたいとさえ思った。


モドル