-運命-

―友―

「はぁ・・」

部屋に戻ったトトは大きく息をはいた。

ここはイルミーネ国王のために用意された部屋だ。
調度は自国のものよりも遥かに高級な品物。
テーブルの上には新鮮な果物類が甘い香りを放っている。
イルミーネではめったに見ることの出来ない光景だ。

この国を彼が治めるのか…。

まさか国王だなんて思わなかった。
褐色の肌と金色の髪。
いかにも異民族風だが、たしかに彼の持つ雰囲気には王と呼べる何かがあったのだ。
外見ではなく、持って生まれた支配する者の魂。

しかし、輝ける彼は影に取り込まれ支配される。
気高い瞳は光を失い、折れる事のない足は地につく。

もはや…。

嫌な世の中だ。
全てが醜く、色あせてゆく。
こんな酷いこの世などに生きていたくないのだ。

影はまた囁きかける。

-おまえには死ぬ資格すらない-
-罪深いトト-

しかし、もう何も見たくない。
最後の運命にすら見放された。
人生とは、私を苦しめるためにのみ存在する。
いかに絶望させ、あきらめさせるか。
ただ、そのためだけに存在する。

楽しく生きる人は生きればいい。
しかし、私はもう嫌だ。

「母上、ごめんなさい」
せっかく生んでくれたのに。

母は、父は、自分に幸せを願っていてくれただろう。

何かいい事があるたびに
「よかったねぇ、トト」
って、撫でてくれた。

まさか、こんな事になろうとは思わないだろう。

果物の近くに置かれているナイフに手をかけた。

幸せを願う気持ちを裏切り。
親を殺し。
自分を殺す。

これがどんなに罪深い事か、私は知っている。

でも・・もういいでしょう・・。
もう疲れた・・。
銀色の面に無表情の顔が映った。


次の瞬間。
瞳が他人の物のように鋭く光り・・
グサッ・・と不快な音。
「くっ!」
だが、手首に突き立てた刃物が、それを持つ腕ごとあらぬ方向に捻じ曲げられた。
そして、また違う方向から「わっ!!」と大きな声。
血しぶきがその声の方向へ飛んだ。

取り上げられたナイフを見ると、氷の瞳が映っていた。

「ジュ・・」
「どうして?」
と、弟の声。



「どうして、このような事をなさるのです」
「ジュール・・」

そこにいたのは、もはや会う事はないと思っていた弟。
人形のような美しい顔を顰めている。

「なぜ、このような真似を・・兄上・・」
「私は・・」
「死ぬのなら・・もっと確実に死ねる方法で死ねばいいじゃないか」
「え・・」
「そんなに自分を責めて、辛いなら、本当に死んでしまえばいい」

弟の口から意外な言葉が出たので、トトは唖然とした。

「どうして・・」

もう一度、ジュールは言った。
まるで自分を責めるように。

「ジュール・・?」

どうして、そんな苦しい顔をしているのか。

「ね・・ジュ・・」


「おい!おまえ!!」
突然、響きわたった大きな声に二人は振り返った。

そこには、いつの間にかバストール国王サングが立っている。

「オレの服を汚しやがって!弁償しろよ!!」
サングは、叫びながらトトの胸倉をつかんで振り回す。
「お止めください、陛下!」
ジュールが間に入ろうとしたが、突き飛ばされた。

サングの服には無数の細かい血痕。
トトの血だ。

先ほどジュールがナイフを奪った際に、はじけ飛んだのだろう。

「汚れたって言ってんだよ、弁償代よこせ!」
「ごめん・・」
トトは静かに言った。
そして、彼の手を振りほどくと、奥の部屋に消えた。
戻ってきたトトの手には、皮の袋。

「これで、弁償してくれ。本当にすまない」
俯いたトトの表情は見えない。
「え、いいよ。こんなにっ!」
ズシリとした袋を受け取ったサングは困惑した。

「いいんだ・・もう・・」
そう言うと、トトは奥の部屋に入っていった。

「なんだよ、あいつ・・」
「兄上・・」
内から鍵をかけてしまったようだ。


奥の部屋は倉庫になっていた。
イルミーネからの荷物が置いてある。
箱と箱の僅かな隙間に身を沈め、トトは泣いた。

何もかも失ってしまった
友達も弟も
信頼も
ひとりぼっちになっちゃったよ

得る事を知らないより、失う事のほうがずっと怖い。
「トトは間違っているの?母上?父上・・」
両親が微笑んだ気がした。

「ひとりぼっちにしないで・・・」

泣き声と嗚咽が狭い部屋の壁に反響して、もっと、もっと、と急かす。

「あーあーあー・・」

・・・・

血を流す手首よりも、もっと心が痛い。




翌日、昼くらいにイルミーネ国王の部屋の扉が叩かれた。

「おーい、開けてくれ!」

特徴のある大きな声。

女官が扉を開けると
非常識な大きさのケーキをのせた、巨大なワゴンが入ってきた。

「よぉ!お元気?」
ワゴンの後ろから顔を覗かせたのは、この国の新国王サング。
ニカっと白い歯を見せて
「プレゼント!」
と言った。

「・・・」
「すっごく食べてみたかったんだよ!こういうの。本でしか見たことないもんなぁ~」
自分の背丈よりも大きいケーキを見上げながら、サングは言う。
「服は大丈夫だった?」
トトが気まずそうな顔で尋ねると
「え、ああ。でも、もらった金が余ったから、ケーキ焼いてもらったんだ」
そのおつり!と、皮袋を差し出した。
「こんなにもらったら、恨まれそうだしな」
「いいよ。一回あげたものだし」
「でも、まわりに叱られるだろ?」
「だってそれ、私の全財産だから・・国のものではないし・・」
「え!じゃあ、おまえ文無しじゃん!!」
サングは大げさに慄いた。

「しょうがないよ、私が悪いんだから」
「文無しじゃこの国にはいられないよ!悪い事は言わない。受け取ってくれ!」
ズイっと差し出された皮袋を、トトは仕方なさそうに受け取った。
昨日までは、あんな剣幕を見せていた彼なのに・・不思議だ。

「では、あらためて。はじめまして!私はバストール国王サング。ようこそ、我が国へ。
イルミーネ国王・・・・えっとなんだっけ???」
「トト・・だよ」
「トトぉ~???変な名前ー!坊さんみたい!」
「え??お坊さんみたいなの?この国のお坊さんはトトっていう名前が多いのかい?」
真顔で慌てふためくトトを見て、サングは笑って言った。
「ハハ・・まさか!ただ坊さんみたいな地味な名前だって事」
「なんだ、おどかすなよ!そっちだってテングみたいな変な名前!」

「会ったばかりで失礼な人だな、キミは!オレの名前は、血という意味だ。暖かな血の通う人柄という意味なのだぞ!」
「気持ち悪い~吸血鬼みたい~」
「トイレに言われなくないね~」
「誰がトイレだよ!」

「あ・・あの・・」
二人の間に入ろうとした女官は同時に二つの瞳に睨まれた。
「・・バストール国王の席をどちらに設えましょうか・・」
「テングの事だから、テーブルの上がいいんじゃないのか!」
「本当に座るぞ、便所坊主!」

きぃ~~~~と声をたてて、組み合う二人。

「すみません!ティーセットのご用意は?」
「めんどーだからいいよ」
「はい、では・・フォークは・・?」
「え、ついてなかったっけ?」
サングは組みを解いて、ワゴンを見る。
ケーキスコップは二つついているが、フォーク等は見えない。
「いいよ。これで食えってことだろう」
サングはスコップでケーキを掬い取り、口に頬張ろうとする。

「ずいぶん・・大胆だなぁ・・」
トトも呆れ顔。

「すごくねぇ!このスプーン。オレの顔ほどもある」
「いや・・それは・・」
トトが何か言う前に、サングは大きな口を開けてケーキをかじった。
「あぃ~ん!!」
「何やってんだよぉ・・」
顔面クリームだらけにしながら、サングはこれ以上はないという笑顔で微笑んだ。
「し・あ・わ・せ」
「ハハハ・・」

その表情があまりにも、彼の心情を語るものだったので、トトは腹を抱えて笑い転げた。

「キミも食べてみるがいいよ」
スコップが差し出された。
「いや・・私は・・」
これで食べろというのか??
トトが躊躇していると、サングは「全部食っちゃうよ~」と、今度は自分の頭ほどの塊を掘り出す。
「あ、ずるい!私も!」
トトも巨大ケーキに突進した。

こんな風に物を食べるのは初めてだ。
口にケーキを頬張ったまま、笑った。
非常識だ!本当に。
でも、なんて嬉しい非常識なんだろう!

「もう・・・甘すぎて気持ち悪くなってきた・・」
「なんかないの?水とかお茶とか・・」
「はい、ただ今ご用意いたします」
女官が振り向きざま歩き出そうとした時。

「まぁ!なんという事!」
厳しくハスキーな声が響いた。

「うむっ?」
サングがケーキを頬張りながら、そちらを見やると、青筋を立てた夫人が立っていた。
「伯母上」

リーチェ公夫人は、つかつかとトトのほうへ寄り、袖を引っ張った。
「なんという無作法な事をなさっているのです!陛下」
「あ・・」
トトの顔に失望の色が浮かぶ。
もう駄目だ・・楽しい時間は終わった。

「おばさん、誰?」
惚けた様子でサングが言うので、トトはサングにそっと耳打ちをした。
「彼女は、私の伯母でとても恐ろしい人だ。逆らわないほうがいい・・」
リーチェ公夫人は額に青筋を立てて、二人を見ている。

「なんだって!恐ろしい伯母さん!?」

まるで、部屋の時が一瞬止まったようだった。

・・・・こいつは。
絶対に内緒話ができないタイプだ・・。

トトは思わず、額に手を当てる。

「なるほど、恐ろしい顔だ!歳を取ったらもっと寛容になるべきだよ、おばさん!」
「まぁ!」
リーチェ公夫人の青筋がピシリと音を立てて切れる前に、サングはトトの手を引っ張って駆け出した。
「そら、逃げろ!」
「でも・・」
「いいからっ!」
二人で廊下に転げ出る。

「陛下っーー!!」
後ろから、女官の声とおぼしきものが聞こえてくる。

「ほら、ボヤボヤしていると捕まるぞ」
「うん!」
なんだか楽しくなってきた。
意味もなく、笑い転げながら、長い廊下を走っていくと、向こうから女官が歩いてくる。
「陛下っ?」
「うわっ!やべっ・・こっちだ!」
と、サングは身を翻し、窓から・・・

「わぁ!!」
思わず、トトは目を覆った。

「早くー!!」
下から声がするので、見下ろすと
シーツを入れた籠の真ん中から、サングが叫んでいる。

「降りて来い!こわいのか?」
「こわくない!」
とはいえ・・・やっぱり怖い・・。

覚悟を決めて飛び降りた。

・・まぁいいや、死んじゃっても・・。


次の瞬間。

ボワっと音がして、白い布がまくれ上がり・・・・

「到着ぅ~」

尻餅をついたまま目を開けると、海色の瞳が覗きこんでいる。
「おまえ、目、茶色いのな・・」
「う・・うん」
あまりじっと見つめられると気持ちが悪い。
「どうして髪、おかっぱなんだ?」
「だって子供は皆そうだよ。大人になったら、横はこのままで後ろだけ伸ばして、一つに結ぶ」
イルミーネの風習ではそうなのだ。
「そうなのか!だから、イルミーネの人達は皆同じ髪型してるんだ!」
サングは驚いたように叫んだ。
そういえば、バストール国では様々な人種がいるので、風習を統一させるのは難しいのかもしれない。
「でも、よく似あってんぜ。おかっぱ!おかっぱのトトちゃま!」
サングはそう言って、向こうのほうへ走っていく。

「なんだよ!トトちゃまって!」
トトはサングの背中を追いかけた。


前を行くサングは右へ左へ、王宮の庭を駆け抜ける。

「こっち!こっち!」
「まってよ!」

バストール王宮の庭は広い。
様々な花が咲き乱れている迷路のような庭園の中を、二人は走り回った。

「ゴールは近いぞ」
庭園を抜けると、花畑が見えた。
今の季節は、絨毯を敷き詰めたように七色の花が咲いている。
サングは、そこの頂上を目指して走った。

・・が、途中で転んだ。

「ぐはっ!」
「先行っちゃうよ~!!」
「こらー!!」

後から追いついたトトが先に頂上に着いた。
「アハハ!勝った!勝った!」
勝ち誇るトトの横で、サングは頬を膨らませている。



「ここは本当に綺麗な場所だね」
トトは言った。

少し高くなっている丘の上からは、先ほど走ってきた庭園と白亜の城が見える。

「ここまで全部お庭なの?」
「ああ、ここは庭っていうか、墓なんだよ」
「え?」
どう見ても、ただの花畑だ。

「ほら、ここに木が一本立っているだろう・・オレの先祖の友達の・・墓らしい」
「じゃあ、これが・・」
トトも昔、父から聞いた事がある。
バストール国には、イルミーネ王室の先祖が眠っていると。
理由あって、かの国に葬られたらしい。
「これは、私の御先祖の墓なんだよ」
「うん、そうみたいだな」
と言いながらサングはごろんと仰向けに寝転がった。

「おい!御先祖様に失礼だ。罰が当たるよ」
トトは、その場所から一歩後退した。
「はぁ?おまえの御先祖だろ?オレはおまえの友達だし、この人はオレのご先祖の友達だったんだから罰なんて当てるもんか、おまえの祖父さんみたいなもんだろう??」
「でも・・」
「考え方暗いなぁ、トトちゃまは」
「ん~~そういえば、そうだけど・・」
バストール国は考え方が違うのだろうか。
それとも彼が違うのだろうか。
どちらにせよ、新鮮な考え方だった。

「キミは本当に面白い人だねぇ」
トトがそう言うと、
「それはおまえのほうだろ?イルミーネの王様は、頭がおかしいと聞いていたから興味あったんだけどさ。おまえ面白すぎるんじゃない?常人と考え方違うよ」
サングは言い返した。

「それは、きみのほうだろ?絶対、変だよ!」
「変人トトちゃま!」
「何をっ!」
トトの伸ばした腕は、サングに止められた。

「やるか?オレは強いぜ」
濃い海色の瞳が鋭く刺すように光った。
「いいとも、私も強いから」
母上以外に負けた事がない。・・剣では。

その途端、びゅっと空を切る音がして、蹴りが飛んできた。

-早い!-

ほとんど動物的感で避ける。
すると、空振りしたサングの足が、そばにある木に当たった。

ズガッ!

重い音がして、木の幹が凹む。
もろに、足が当たったその痕が生々しい。

「なんだ!おまえ、常識外だ!」
思わずトトは叫んだ。
「本気出さないと、死ぬぞ!」
もう一度、蹴りが飛んできた。

今度は避けきれずに、両手で受け止める。
すると、有に7.8メートル吹き飛ばされた。

「おまえ・・普通の人間じゃないだろう?!」

小柄な身体のどこにこんな力があるのかと思うほど、強い力。
しかも、セーブやブレーキがまったくない。

-殺される?-

トトの身体に衝動的な考えが走った。
それでも、この相手に退きたくなかった。

「本気を出せ!オレの友だと言うなら。久しぶりに強そうな奴と会って喜んでいたのに!
オレを失望させるな!」

強く・・彼と対等である事が友達の証なら、答えなければならない。
彼を失望させたくない。それは、悔しい。
彼を失いたくない。
唯一、私を友と呼んだこいつを!

「くっ・・」
トトは勢いをつけて、サングに掴みかかった。
拳がくる。
身体に、顔面に。
ガードをする事もなく、受け続けた。

「なんだ?」
サングの顔に焦りと驚きが生まれた。

「このくらいじゃ、私は倒せない!」
鼻と口から血が流れているのがわかる。
でも、不思議と痛みを感じない。
気持ちが熱くなりすぎているせいか?

「殺せるものなら、殺してみろ!!」
トトの両腕がサングの胴を掴んで、空に投げた。
地面が花に覆われているせいか、大した音もなく、サングは堕ちた。

手を・・差し伸べなくてはいけないのだろうか・・。
しかし、トトはピクリとも動かない。
・・動けない。

じっと倒れた相手を見下ろした姿勢のままで。

「おまえだって普通じゃねぇよ!怪力男!」
サングの声で、思わず我に返る。
「え、あ・・うん」
鼻がムズムズするので手で拭うと、べったりと血がついた。
「大丈夫かよ?」
サングが顔を覗いた。
「大丈夫だよ。このくらい・・」
トトは袖で鼻血を拭いて、ニヤリと笑ってみせた。

本当は顔も腕もズキズキと痛んだが、彼にそれを見せる事はできなかった。

「あ、ここからも出ているぞ・・血」
サングが指差す部分。
手首の包帯に血が滲んでいる。
「・・・・ああ、これか・・別にどうってことない」
「そういや、おまえ昨日何してたわけ?突然、ナイフを腕に突き刺したりしてさ?」
「あれは・・」
死のうとしていたなんて、言えない。

「あ、あれは、腕に虫がとまっていたからさ」
「はぁ?」
サングが大口を開けて止まる。
「だからってナイフで刺そうとしてたわけ?虫を?」
「う・・・・・ん」
あまりのサングの驚愕ぶりに・・・トトは、自分でも少し変なのかな?と気づいた。

「あ・・アハハハ・・!!」
腹を抱えて、大声で笑うサング。
笑いが止まりそうにない。
「笑うなよ!」
「ハハハ!だってさ、しないだろ普通!虫、虫殺すのに、ナイフで腕刺したんだろ?変だ!」
「そ、そうだね・・」

・・・さすがに変だった。

「だから、おまえ頭おかしいって言われんだよ。本当におかしい!」
「お、おまえのほうがおかしいだろ!あれを見てごらんよ。木に穴が開いちゃったじゃないか!」
「変なトトちゃま!」
「私だって、はじめて見た時から変だと思っていたよ。バストール国王・・サン」
「サング!」
「ごろが悪いから、サンと呼ぶ。いいだろう?」
「ああ、いいよ。イルミーネ国王トト・・別にどうってことないな。チッ・・つまらない」
「面白い名前じゃないもの、キミみたいに」
「オレだって立派な名前だぞ・・なんだよ、やるか?」


花畑に笑い声がこだました。


「兄上・・」
「どうかしたのかい、ジュール・・?」
隣を歩くジュールの表情が戸惑いと驚きに変わったのを、アンジュー公は確認した。
「いいえ・・」と、答えるジュールは、口とは裏腹に一点から視線を外そうとしない。

じっと見つめる先には・・・・

「ジュール、君の気持ちはわかるが、君が今の時期に彼と接触するのは危険だ。存在を知られてしまった以上、何事もない振りをするのは難しいだろうが・・」
「言いつけを守らなかった事にはお詫びいたします。しかし・・私は・・」

ジュールの小さな抵抗の言葉を聞いてアンジュー公は思った。
この甥は、ディアヌの家にいた頃、本当に人形のようだった。
表情と言えば、無か、他人に対して作られた微笑みか・・。
感情を表に出す事はなかった。

だが、今、この子の瞳の中にある光は、あの頃とは少しだけ違う。

兄と出逢って変わったのか?

イルミーネ国王がバストール国王の戴冠式に来ると聞いて、手元に置いているジュールを隠しておくのが賢明と判断し、式にも後ろから見ておくだけにするようにと指示を出した。

できるだけ、イルミーネ国王から離しておくつもりだったが・・・。

以前から大人のいう事を、まるで命令を聞くかのように受け入れ続けていたジュールが、突然、式の後にイルミーネ国王の控え室に向かったと聞いた時は、驚きよりも不安が先立った。
彼の身が危険に曝される恐れがあるからだ。
賢い子だ。そのくらいわかるだろうに。
しかし、それでもジュールはイルミーネ国王である兄に接触を試みた。

なぜだろう?

それにこの表情。

「兄上・・笑っている・・」
「ジュール・・」
「よい・・事なのですよね。・・なのに、とても悲しいのです。なぜでしょうか、叔父上」
ジュールは泣いてこそいなかったが、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「ジュール・・君は彼にとって、必要な人間になりたいのだろう・・」
アンジュー公は自らの感情を鷲掴みにするような甥の言葉に、ある種の嬉しさと、悲しさを感じていた。

この子も私と同じ道を歩むのか・・。

それは同志ができた嬉しさと、その行く末を知っている者の悲しさだった。

自分の実の兄に想いをよせる事への苦しさ、やるせなさ・・。

「ジュール」
「はい・・」
「君は逃げてはいけないよ」
「・・何からですか?」
「現実からだ」

そう言うとアンジュー公は、もう一度イルミーネ国王を見た。

戴冠式で見せたあの表情からすると、嘘のように明るい顔をしている。
花畑の中にいる二人は、まるで、かつてのマクシミリアンとジュバルトのようだった。

そして、この子は・・・私か・・。

「ジュール、もう行くよ」
「はい・・叔父上」

前に向きかえったジュールの瞳には、くっきりと兄の顔が焼き付いていた。

・・兄上・・笑っていた・・・・

一人でバストールにいた時に、幾度も思い浮かべた笑顔だった。
しかし・・私はこんな形でそれを見たくなかった。
自分でも気づいていなかった事実。
ただ思い描くだけで、目の前にあるだけでよかったと思っていたのに・・。

人形のような顔の裏で、
「こんなの・・違う・・」
と、叫び続けているもう一人のジュールがいた。


モドル