―流浪―
風の流れが変わった。
「失敗か、馬鹿なことを」
テラスで、アランソンは一人心地呟いた。
先ほどまで、そばにいたものは、もうこの世にはいない。
その現実は、恐ろしいほど呆気なく、儚ささえ感じられぬくらい虚しかった。
「アランソン、あなたは大丈夫なのでしょうね?」
後ろに控えている女性が、不安げに震えた口調で問うた。
「大丈夫ですよ。…ママ」
手にした真紅の薔薇を母に手渡しながら、アランソンは答えた。
「彼らのような事にはなりますまい」
バルッサンらは、国外追放を命じられて数時間後に、国境近くの館で発見された。
貴族らしく、美しい死に様を選びたかったと見える。
彼らは、手首を鉈で切り裂いて命を絶ったのだった。
自らの館を死に場所に選ばなかったのは、一族のためか。
こうなったらどちらにせよ、同じことだ。
一族が許されても、彼らの没落はまぬがれまい。
かつてのアルキュード候のように…。
故アルキュード候は、自分の娘を前バストール王に献上したが、所詮妃の地位には遠く。
むしろ、その事を前々イルミーネ国王に知られ、不興を被った。
前バストール国王とその娘の間に生まれたのが、ディアヌ。
前バストール国王は、そのことを認めてはいたが、正妻の子とは別の扱いをした。
そのディアヌの子がジュール。
歴史は繰り返す。
バルッサンが動かなくとも、ジュールの存在は確認していた。
アルキュード候亡き後、没落していたアルキュード家を継いだ一人娘ディアヌをマクシミリアン国王に進めたのは、他ならぬクルーレ一族なのだから。
ジュールの事は知らぬ存ぜぬの振りをして、他の者に担ぎ出させる事が目的だったのだ。
バルッサンが動いた事は成功だったが、早急に物事を進めすぎた。
そして、奴では役不足だった。
国王が死んで、事態が変わる可能性は半分。
2分の1の賭けだった。
改革派セバスチャンらが残っている限り、すぐにアルキュード候を王位に、という事は難しい。
貴族内だけの争いになった場合、運が悪ければ、バストール国に併合されてしまう可能性もある。
だから、ジュール・アルキュード候を反国王派の旗頭に押し上げる準備が必要だった。
だが、そのジュール・アルキュード候は行方不明。
セバスチャン側に匿われているわけでも、闇に葬られたのでもないだろう。
生きているうちに捕獲しなければならないが…。
まだ生きているとしたら、違う形で利用しなければいけない。
いずれ、あの人形は我が手中に収める。
それまで泳がせるか…。
あの者の意思など、どうにでもなるのだ。
貴族達に印象を植え付けるのが第一の目的なのだから。
そういう意味では、バルッサンは成功したともいえるだろう。
「アランソン、手紙がまた届いたそうです。まるで、こちらが謀反を起こしたようではありませんか」
母は声を潜めた。
もう何通もバルッサンらの一族から手紙が届いている。
「差出人を間違えているだけですよ。彼らが温情を求めるべきは国王陛下でございましょう。
使いには送り返すように申し付けておきます。だからご安心をしてください。ママ」
それからアランソンは、入れたばかりの茶に口をつけ
「まだ、香りが足りない…」
と言った。
「今夜はうちに泊まっていきなよ」
「はい、そうします」
長いフードを被った少年は静かに答えた。
手には1本のリュート。
「あんた15歳で出稼ぎに行くなんて大変だねぇ。
イルミーネの北の村から来たんだろう。あそこは冬が厳しいから」
同情するような男の声に、少年は黙って頷いた。
ここは、どのあたりだろう?
城を出て、手持ちのリュートと持てるだけの金を持って、留めてあった馬を走らせて。
山を越え、林で馬を放して…荷馬車に乗り…。
素性を誤魔化すのは簡単だった。
拾ったフードを被り、5歳ほど上の年齢を言い、出稼ぎに行く途中だと話した。
背が高めだったのも幸いして、男はそれを信用したようだ。
この男の荷馬車に乗ってもう半日になる。
どこをどう進んだかはわからないが、
「この街道を進むとバストール国の方だよ」
と男は言った。
イルミーネの南西に位置しているバストール国は、自らとも決して関係が薄くない。
母の父は前々バストール国王だった。
だが、祖父をただ一度も見たことはない。
娘である母にも一度も顔を合わせることがなかったという。
母はバストール国王の婚外摘出児なのだ。
バストール国王は、母を一応自分の子とだけは認めていたらしいが、自分の父たるイルミーネ国王は、成したはずの自分の子さえ認めなかった。
馬車は、林を抜け草原に出た。遠くに小高い山々が見える。
春の訪れが野にちらほら見えているのに、山々の半分は未だ雪で覆われている。
風も暖かくはない。
とりあえず、バストールについてから身の振り方を考えよう。
そう考えた。
バストール国は、異民族が多く入り込んでいるため、一時的に紛れ込むには適しているともいえる。
ただ、この国はイルミーネに近いため、捜索の手がまわらないとは限らない。
しかし、自国が王位継承問題で揺れている時に、他国のことなどに本気で取り合うとは思えない。
第一、イルミーネの方からも捜査の手は回っていなさそうだ。
見つからないなら、その方がいいということか…。
ジュールは皮肉気な笑みを浮かべた。
バストールには、母の弟、自分の育ての親とも言えるアンジュー公レイチェルがいる。
しかし、今はこの人が王位継承に巻き込まれているのだ。
今、庇護を求めるのは無理だろう。
下手をしたら、もっと面倒な事にもなりかねない。
所詮、初めから行くところなど、どこにもなかったのだ。
自ら起こした行動とはいえ、馬鹿なことをしたものだと思う。
この先、何があるのかはわからないが、どうにか生きていけるだろう。
妙な具合に高鳴る胸を撫でて、ジュールは呟いた。
「まるで、子供だな…」
もう夕陽が傾きかけている。
まだ事が起きてから、一日たっていないのに、ずっと前から旅を続けてきたようだ。

やがて、馬車は一軒の小屋の前で止まった。
古い崩れそうな家を目の前にして、男は
「豪邸だろ?」
と笑った。
すると、ドタバタと音がして家から小さな子供が3人飛び出してきて、次々に「父ちゃん、お土産は?」「お土産ー!」と口走る。
「はいはい、わかったよ」
男はポケットから包みを取り出した。
子供達は、急いでそれを取って中身を指で摘みだす。
「飴玉!」
「あめだま」
「ちょっと待って、分けるから」
まず年長の一人が、包みを持ち、下の子に数を数えて渡している。
「オレの子供達だ。ちいとうるさいが我慢してくれよ」
「…え、ええ」
ジュールは答えた。
あの子らは自分と同じ年頃なのに、なぜこうも違うのだろう。
同じ年頃といっても、中に入って話す気にはなれない。
それに、あのような菓子を城でも見たが、シャンパンの隣に置かれ、誰も手をつけることなく捨てられていた。あの光景が今では嘘のようだ。
「おかえり!あんた」
「ただいま!」
男の妻と思わしき女性が家から出ていた。
「この子はなんだい?」
妻はフードの少年を指差し、不躾な言い方で聞いた。
「途中で拾ったのさ。出稼ぎに行くらしい」
「へぇ、大変だね。あんた」
妻は腹を突き出して言った。
「それでさ、泊めてやってくれないか」
「まぁいいけど、どこに寝るんだい?」
「暖炉の前が開いてるだろ」
夫妻の話を聞きながら、この家には個別の部屋というものがないらしい、とジュールは悟った。
「ちょっと焦げ臭いけれど、その分、暖かいから我慢してくれるかい?」
妻はリンゴのような笑みを浮かべて家へ招く。
「ええ」
夫妻の自然な態度から見ると、どうやら情報はいきわたっていないようだ。
家に入ったジュールが被っていたフードを取ると、夫妻は目を見張った。
「ほう!」
「まぁ、あんた。出稼ぎなんて行くのもったいないよ。役者の方が向いてるんじゃないのかい?」
現われた美貌に驚きながら、妻は暖炉の前を軽く箒で掃いて
「こんな場所で悪いけど…」
手早く男が即席のベッドを作る。
積み上げた藁にシーツを被せただけの粗末なベッド。
ジュールがその上を触ると、ガサリと音がした。
「もうじき夕食にするから、しばらく休んどいで」
台所から妻の声がする。
ベッドに腰掛けると、足にチクチクと藁が刺さる。
しかし、これでもこの家族にしてみれば、精一杯の思いやりなのだろう。
まわりを見ると、粗末な木のベッドが一つ。
このベッドと同じような藁のベッドが二つ。
木のベッドは夫妻の物として、藁のは子供たちの物か。
一度だけ、上に乗った事のある国王のベッドを思い出す。
あれは、この部屋くらいあったのではないだろうか。
幾重にも重ねられたマットレスと真綿で出来た敷物。
あんな物がこの世に存在している事を、この一家は知らないのだろう。
「今日は父さんが帰って来たからね。夕食は豪華だよ」
妻が子らに言う声が聞こえる。
やがて「夕食だよ!」と声がかかった。
テーブルの上には、堅い胚芽パンが2つ。
暖めたミルクと、ぶつ切りの肉が入ったスープ。
「今日は運がいいね。兎が入っている!」
席に着いた男は舌なめずりをした。
お祈りをすませた後で、ジュールはスープを口に含んだ。
薄い塩味で、骨の付いたままの兎の肉と、わずかばかりの野菜が入っているスープ。
口に含んだ瞬間に、強烈な動物臭が広がった。
「たくさん食べて!」
妻が嬉しそうに言う。
昨日から何も食べていなかったので、空腹だったのは確かだが。
慣れぬ臭気に吐き気を覚えながら、ジュールはスープを口に運んだ。
これでも、この一家にとってはご馳走なのだろう。
城で出たスープを思い出してみる。
あれは、かたまり肉のないスープだった。
肉と野菜と一緒に煮詰めた後、濾す。
肉が蕩けるまで煮詰めているのに臭みはない。
大量に使うハーブと香辛料のせいだ。
あそこまで贅沢なスープといわなくても、母の家にいた時、ウズメの家にいた時、その他の家でも、こんなに酷い味のスープは出なかった。
この先、ずっとこんな物を食べて生きていかなくてはならないのか。
兄は今頃、あのスープを飲んでいるのだろうか。
夕食が終わり、ジュールはベッドに移動した。それ以外にすることもない。
横になると、食器を洗う妻の背中が見えた。
子供達と父親がその後側で遊んでいる。
子らの声を聞いているだけで、母には子らが何をしているのかわかるようだ。
一緒に笑い声を立てている。
あんなに酷い味のスープを飲んで、こんなに堅いベッドに寝て、こんなに狭い家に住んでいても
彼らは兄よりずっと幸せそうに見えた。
しかし、生活は違えど兄はこのような家族というものを知っている。
父と母を失った時、兄は涙を流したに違いない。
あの別れの夜のように。
父の死にも母の死にも涙一つ流さなかった自分と違って…。
あの人はいつも悲しい顔をしていたが、悲しい顔をしていない自分は、この幸せすらも知らないのだ。
いくら手を伸ばしても、ここからあの光景には届きそうになかった。
「もう行ってしまうのかい?」
妻の問いにジュールは
「私は、ここにいてはいけない気がする」
と答えた。
「もう少し、ここにいてもいいんだよ。外もまだ寒いし」
「いえ、これ以上のご迷惑はかけられません」
正直言って、相手の都合より自分の事だった。
味わった事のない暖かさは違和感があり、あのスープのように吐き気を感じさせる。
孤独とは自ら感じるものだが、疎外感とは人に感じさせられるものだと一瞬のうちに知らされた。
所詮は流れるまま…。
妻に礼を言い、また荷馬車に乗った。
行き先はバストール国。
今度はどんな場所に行き着くのだろう。
母の死後、生まれた時から住んでいた母の家は、知らない男に取られてしまった。
母は、その男に金を借りる担保として家を指定していたらしい。
住むところをなくしたので、しかたなく母の乳母ウズメに連れられて、母の知り合いの貴族の館を訪ね歩いたが、どこも長い滞在の地にはならなかった。
主人たちは、イルミーネ国王に似ている子供に関わりを持とうとはしたがらなかった。
何がしかの陰謀に巻き込まれる事を恐れたと見える。
それに加えて「この方こそ、正当な王位継承者」と人目を憚らず主張を繰り返すウズメには、まわりの目が見えなかったのだろうか。
結局は、厄介者の扱いを受けてどこからも去らねばならなかった。
所詮、どこに行っても同じなのだ。
そう思っていた時、バルッサンから声がかかり…。
行き着くところがなかったから行っただけだ。
自分と母を捨てた父のもとへ。
父が死んだとは言っても、兄が支配している宮廷に。
どんなに恨んでいるだろう。憎んでいるだろう。どのような扱いを受けるだろうか。
そう思っていたら、あの人が悲しい顔をして立っていた。
「私の代わりに王位を」
それを拒絶したのは、あの人のためなんかじゃない。
父から愛され、その地位を願っている人こそ、それを継ぐべきだ。
そもそも、会ったこともない人の地位を継ぐ気など起きるはずもない。
必要だ不必要だと、周りの天秤にかけられて生きるのはもう嫌だった。
それだけだ。
あの兄は、きっとこのような暮らしをしている人間がいる事を知らずに、私の事も何も知らずに、鳥籠の中で生きていくのだろう。
丈夫な鳥籠の中で、ただ一人悲しみにくれながら・・・。
兄に一言いってやりたかった。
それが憎しみなのか、僻みなのか、嫉妬なのかはわからない。
言いたい事が何なのかも…。
―でも、もう一度会えたら…―
何も望んだ事のない人生の中で、それは初めて強く願う欲求だった。
―もう一度、あの人に会いたい―
荷馬車は、山道をガタガタと音をたてて進んでいく。
「ここからは下り坂だよ」
山間を出ると、そこは別世界だった。
黄色の小さな花が野原に散っている。
雪の気配はどこにもなかった。
「この先がバストール国だ」
素朴な楽園を出ると、急に風が温かくなってきた。
検問とは名ばかりの門を潜るとバストール国に入る。
「あそこは、いいかげんなのさ。歳しか聞かれなかっただろ?」
「はい」
国に危険物が入り込まないのかと、ジュールは男に聞いた。
「ほら、あそこに犬がいるだろう。あいつが吼えたら×。国に入れないどころか、逮捕されちまう」
危険な薬を持ち込む奴がいるらしいと、男は言った。
「阿片か」
ジュールの呟きに男は驚き
「よく知ってんな!」
と言った。
「聞いたことがあるだけです」
まさか母が頭痛の薬と偽って吸っていたとは言えない。
母は薬を買うために自分の男に金を借り、家まで取られたのだ。
「あんなの吸ってる奴らの気がしれないね。高い金出してさ、酒でも飲んでりゃ少しは気が晴れそうなもんだが・・・」
男は顎を撫でながらぼやいた。
酒では到底救われない哀れな魂だけが手を出す最上の罪悪だろう。
脳が腐って、身体中が蝕まれても止めることができないのだ。
それを知った歳の頃には、母は、もはやそれなしでは生きられない身体となっていた。
いつか、酷く惨めな死をむかえるとわかっていても、抜け殻のように姿だけはそのまま留めいている母が去る事など想像もつかず、ただ日々は緩慢に流れていった。
そして。
-母はあの日、腐って壊れたベランダから落ちて…-
「どうした?」
青い顔で俯くジュールを、男は心配そうに覗き込んだ。
「なんでもない。大丈夫です」
「暑さにやられたんだろう。ここは、もうバストール国だからな」
たしかに、イルミーネとはまったく気候が違う。
輝く太陽。湿気を含んだ海の風。
所々から漂ってくる異国の香り。
荷馬車は街へ入った。
とにかく花が多い街だ。
どこの家のベランダからも、窓からも、橋の上にも、花が咲き誇っている。
「ここは別名”蘭の都”だよ」
たしかに蘭の花が多い。
暖かい地方にしか咲かない品種だ。
イルミーネでは王宮内の温室でしか見ることはない。
色とりどりの異国語の書かれた看板と、見たこともない形の屋根。
全てがバラバラに見えて、統一性がある不可思議さ。
人々も、髪の色、肌の色が様々で、着ている物も違っている。
それと、ともかく空気が…ある通りに入って途端、特に強烈に香った。
「ここは南の方の市場だ」
まわりを見ると、香辛料が大きなザルに入れられ並んでいるのが見えた。
男によると、バストール国は、東西南北それぞれに違う文化の市場があるという話だった。
「この国の城は半島の北東にある。”白亜の城”といって、とても綺麗な城だ。一度遠目からでも見ておくといい」
ジュールはその場所は警戒すべきだと考えた。
イルミーネからの使者に見つからないとも限らない。
「城から一番遠い市場はどこなんですか?」
「それなら、西の市場か・・・そっちに用かい?」
「はい」
城から遠ければ遠いほどよいのだ。
「ちょうど西の市場に用があったところだ。そっちまで乗せていってやるよ」
男は白い歯を見せて笑った。
たどり着いたのは、薄汚い路地裏。
とりあえず、行き倒れの人間がそこらに落ちていないだけ、ましに見えるような場所。
「この辺か?」
と男が尋ねたので、ジュールは荷馬車を降りた。
「ありがとう」
「行き先はわかるのかい?」
「…大丈夫」
本当は何もわからない。
ここが、どういうところかも。
ここで、どうなるのかも。
「さようなら」
男の姿がしだいに小さくなっていく。
これでいいんだ…。
ジュールが俯くと、足元のひび割れた石畳が夕陽に紅く染まっているのが見えた。