マザー

見たくないものを見てしまった。
昔、こういうのを映画で見たことがある。
あれは、たしか凶悪宇宙人が地球を侵略に来る内容だった。

大きなゴキブリ。
少なくともマンションの一室くらいある奴。
しかも、卵みたいな球体を身体中にくっつけている。

「き、気持ち悪い…」

僕の隣で、彗が口を押さえ呟いた。

「矢崎?!」
日向が、いつにない彗の様子を伺う。
しかし、彗は俯いたままだ。



「あれが、ここを這っている奴らのボス。マザーだ」
翔が言った。


「女王ゴキブリって奴だね」
総一郎が、さりげなくシロを服の中にしまいこむ。

「そう。残念ながら、出口はあいつの後ろ」
「まさにラスボスだな」

日向が物干し竿を構えた。
翔もバズーカを構える。

彗は…。

白い顔を蒼白にさせて、立ちすくんでいる。

「彗、あんなのちょっとしたハリボテだと思えばいいんだよ!」
「…」
僕の言葉にさえ、彗は黙って首を振るだけだ。
どうやら、本当にゴキブリが苦手らしい。
さっきまで余裕で戦っているように見えたが、たしかにこいつは桁違いに気持ち悪い。
ゴキブリが苦手じゃない僕が見ても気持ち悪いのだから、彗が恐がるのも無理はない。
少なくとも、この中でまともに戦えるメンバーに入っているのに、このままでは僕よりも危ないかもしれない。
僕は、さりげなく彗の前に立った。

今まで守られてばかりだったから、ここで挽回する。
無敵の彗にだって苦手なものの一つくらいあるのだ。
こんな危機的状況の中で、その事実は僕にとって、彗を身近に感じさせるものだった。

「いくぞ、翔!」
日向が飛び出す。
「おう!」
翔も男らしい声と返事で答えた。

物干し竿が、ゴキブリの腹部を狙う。
しかし、ゴキブリは硬い甲羅のような頭をぐるりと回して、日向の物干し竿を防いだ。

「こいつ、見かけより頭いいぞ!」

無言のまま、翔はバズーカを放つ。
轟音が響き、ゴキブリは緑の血を吐いた。
どうやら、羽の一部を吹っ飛ばしたようだ。

だが、その次の瞬間。

「がはっ!!」
翔が5mくらい飛ばされた。
奴の足を食らったようだ。

ずるずると壁にもたれかかる翔に総一郎が駆け寄り、反応を見るが…。

「ダメだ。気を失っている!」

「え・・・・」

頼みの綱の翔がやられたって事はだいぶまずいんじゃ…。

総一郎が翔を気づかせようと、がんばっている間、事態はもっとまずい方向に進んでいた。

「チッ!!」

日向が顔面に突き刺そうとした物干し竿を、奴は口で受け止めて、日向ごと高く飛ばした。

「くそっ!」
途中で日向は物干し竿から手を放し、着地したが、もうその手に武器はない。

総一郎が、気がつかない翔の手からバズーカを取り上げて震えながら、奴に照準を合わせた。

「当たらなくても、恨まないでよ!」

言いながら、カチリとスイッチを入れる。
ドーンと音がして、奴が斜めに吹っ飛んだ。

「いまだ!!」

日向がゴキブリの硬い皮に覆われていない腹部に向かっていく。

「うらぁ!!!」

バスッと鈍い音がした。なんと、ムエタイ必殺の膝蹴りを食らわしたのだ。
さすが、ムエタイの選手を目指すだけある!

ゴキブリは、ゴボゴボと音をさせて緑の血を大量に吐いて痙攣した。

「ムエタイの膝蹴りはね、最大700kくらいの威力があるらしいよ」
物を言えなくなった彗に代わって、総一郎が解説してくれた。


ゴキブリが死んだかどうかはわからないが、身動きしないところを見ると、しばらくこのままだろう。

「早く!早く!今のうちだ」

総一郎が、翔を抱え、出口に向かって走り出した。
日向も、その後を追う。

「彗!いくよ!」
「あ、ああ」

僕も彗を連れて、出口に走った。




ゴキブリがピクリと動いたように見えた。



「彗!」

咄嗟だったので、何が起きたのか、自分でもよくわからない。

ただ、泣きそうなほど顔が痛い。
次にズキズキと腹も痛くなってきた。

動かなくちゃ…やられちゃう。
動かなくちゃ…。


「浮雪!!」

頭上でターンと音がした。
気がついた翔が、銃でゴキブリを打ったのだ。

ゴキブリは、静かに落ちた。


「浮雪!!大丈夫か?!」

彗が覗き込んでくる。

そうか、僕は…彗をかばって、腹にゴキブリの足蹴を受けたんだ。

それで、吹っ飛ばされて顔を打った。

ぬるりと顔を何かが伝う。

鼻血だった。


「おまえ、どうしてこんな事を…」
彗が自分の上着で僕の鼻血をぬぐってくれた。

「僕にだって守りたいものがあるから」

「…立てるか?」

立とうとしても身体がいう事を聞かない。


その様子を察して、彗が抱きかかえてくれた。


「すまない…あと・・」

彗が言いかけたところで、総一郎がいつにない顔をこちらを見て、寄って来た。

「矢崎…。浮雪を守ってやるんじゃないのか?」
「…」

どうして総一郎がこんな恐い顔をしているのかわからない。

「言ったからには守ってやれよ」

「ああ」

総一郎は彗の肩をポンと軽く叩くと、出口に向かって歩き出した。




「ありがとう」

出口から出る瞬間、彗が聞き取れないくらい小さい声でそう言ったのを、僕は聞いた。


だが…

出口から一歩出た途端。

僕達の身体は下に向かって落下した。

「これは?!」

「矢崎!浮雪!!」
「坊やたち!!」

下の階に落ちるのか?また??


それにしては浮いているような不思議な感覚。

翔が、日向が、総一郎が…小さくなっていく。

彼らのいる世界が小さな扉みたいに見えて、消えてゆく。


「浮雪」

彗が僕をしっかりと抱きとめてくれた。

「どこに落ちても離さない。今度は」
「彗…」


僕は、僕達はまたどこかに落ちるのだろうか?



この世界は暗い。
でも、まるで誰かの身体の中に入り込んだみたいに暖かい。
世界は語りはじめた。




「それまでの僕は、胸にいつも不安の種を抱えて・・・。
嫌な事があるたびに、種は大きく重くなり、僕を苦しめた。
世界は狭く、小さい。
まるで僕は箱に入れられた子供のようで、小さな穴から世界を覗き見ているだけ。
世界は暗く、どこにも行き場所がなくて。
こんな世界はどこかおかしい。
こんな世界なんて無くなってしまえばいい。
きっと違う世界で僕は物語の主人公。
生きていける場所は、ここだけだから。
それが今までの僕だった。
もう独りは嫌だ…」

そこにもう一つの声が重なった。
前にも聞いた女の子の声。

「皆、同じだから。
仲間の心を一つにして。
それが世界を救う唯一の方法。
ジグソーパズルを完成させた時、きっと世界は救われる」




目を開けた僕の前に光が現れた。