
口の線を指で辿った。
愛しい・・
声にならない囁きは、そのまま感触として残った。
鏡に映る首筋には、紅い痕が残っている。
何より大切な・・トト
昨夜の情交の残り香を身体に纏いながら
心では別の男のことを考えている。
このままではいけない。
その日から、国王が東の館に赴く事はなくなった。
会わなければ、きっとこの気持ちもおさまる。
そして、ヴォルフガング・ツバニコフがイルミーネの夜会に出席することもなかった。
「ザビーネ辺境隊とは、もうお会いにならないのですか?」
渋い顔に複雑な顔色をのせて、セバスチャン・デティオール卿は尋ねた。
「おかしな事を言う。訪ねるなと行ったのはおまえではないか、セバスチャン」
「いや、まぁそうですが・・こうもあっさりと陛下のほうから手を引かれるとは思いませんでした」
デティオール卿は頭髪のない頭をかき、口をこもらせながら言った。
「もしや、あの者たちが陛下にとんだご無礼でもしでかした上での・・その・・」
「そんなことはないよ。あの者は私の個人的な友人のようなものだから・・」
「友人・・ですか。それは・・」
途端に表情に渋みが増したデティオール卿を笑って、トトは答えた。
「あの者が私に何か要求をしてくるなどという恐れはないよ。あの者は、風のような・・」
・・そして、風のように捉えどころなく、どこかに行ってしまうのだ。
「・・・」
「陛下・・」
「あの者の話を聞きにいっていただけだ。この国からでは知る事ができないような事柄を教えてもらった」
「そうですか、陛下・・しかし・・突然陛下の訪れが途絶えたとなれば、あちらも何か考えるのでは」
「それはないよ。そういう人なのだ。だから、夜会にも来ないではないか」
あの人の声が聞きたい。
姿が見たい。
たとえ、そばにいられなくても。
「それならば、結構です」
「ああ・・よくわかっている。私は」
デティオール卿が退出した後、胸に手を置いて考えてみる。
あの人が、他の国の国王に取り入って利権を得ようとしたことはたぶん本当なのだろう。
そうしなければ、生きていけない理由があるなら、あの人はどんな手段でも使う。
想えば想うほどに、あの人の光も影も見えてくるのだ。
私は、彼に値する人間か?
その暗い輝きにまやかされる事なく、あの人を真っ直ぐに受け止められるのか。
あの人が友人なら、それは可能かもしれない。
しかし、会えば響きあってしまう魂を止める事ができない。
好きだとも、愛しているともいえない。
ただ、ただ・・
愛しい。
「ザビーネ辺境隊が、いよいよイルミーネから出て行くらしい」
貴族たちが噂を始めた頃、イルミーネ国に春の兆しが芽吹き始めていた。
「兄上、桜がもうすぐ開花するそうですよ」
ジュールは、膨らんだ桜の蕾に指先で軽く触れたりして、微笑んだ。
「そう・・」
あの人はどうしているかしら?
「兄上・・」
「ジュール・・ジュージュはとても優しいね。とても美しいね」
「え、そんなに褒められても何も出ませんよ」
ふざけたように笑うジュールの顔を見ると、心が痛くて痛くてたまらなくて。
「私は、ジュールがとても大切なんだよ」
トトはジュールに微笑んだ。
「私もあなたがとても大切です」
ジュールの指が、トトの前髪に触れた。
「あなたを見ると幸せな気持ちになれる」
細められたアイスブルーの瞳からは優しさが滲み出ている。
「抱きしめて・・」
トトはジュールの胸に飛び込んだ。
私が安心していられるところはここだけなんだと、強く思いながら。
それから・・ジュールが先に帰った。
何か用があるらしい。
いつの間にか・・足が勝手に東の館に向かっていた。
東の館の付近は、日差しがよく当たるようで、もうちらほらと桜が咲き始めていた。
桜を見るために、こちらまで足が向かってしまったのだと、自分に言い聞かせながら
館の扉を叩いた。
「これは、陛下お久しぶり」
何事もなかったかのような顔でツバニコフは現われた。
彼は国王を私室に招きいれ、前と同じように、グラスに10年ものの酒を注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
だが、それしか会話がなかった。
黙ったまま酒を飲んで・・どれくらいたったのだろう。
あたりが暗くなってきた。
もうどれくらい酒を飲んだのかも、何時間たったのかもわからない。
「帰られなくてよいのですか」
ツバニコフは、至極冷静な口調でそう聞いた。
「ああ・・」
トトは頷き、グラスを手にテラスを見た。
外には、開きかけの桜が白く輝いていた。
「では、桜でも見ましょうか」
ちょうど、夕陽も落ちた頃で、夜の欠片を取り込んだ空は紫色だ。
「ここは開花が他の場所より早いようですね」
テラスの淵にグラスを置いて、ツバニコフは呟いた。
「今年の春を独り占めにできた気分だ」
「私は、桜が一番好きなのだよ・・あなたも桜が好きなのか」
桜の情景と、酒の香気が混じり、トトの周りに小さな空間を作っていた。
「好きですよ」
ツバニコフのグラスの氷が鳴った。
「私は・・・・咲いている時よりも散る時が好きだ」
「私も、好きですよ」
「私は・・」
「桜が・・とても好きなのです」
そう言うと、ツバニコフはグラスの中のものを飲み干した。
「・・・」
黙って、遠くを見ているトトの肩を暖かいものが覆った。
「まだ、外気は冷たい」
掛けられたマントは、トトの背丈には長すぎた。
そのまま両肩に乗せられた手は暖かく、重かった。
「・・大丈夫」
このまま背後の影に身を委ねてしまえたら、どんなに楽だろう。
「私を安心させてください。あなたが小さな肩を震わせているのを見ているのは心苦しいのです」
「あ・・」
なんと言葉を発したらよいのだろう。
一瞬全ての言葉を忘れてしまったような錯覚に陥った。
どうしても、次の言葉が出てこない。
目の前を、咲きかけた桜が、数枚舞うのを見た。
「私は、もう帰らなくては」
「では、入り口までお送りしよう」
「大丈夫」
「陛下・・私は」
「今日会えてよかった」
トトは肩に掛けられたマントをツバニコフに返すと、早足で入り口に向かった。
東の館に至る道には、僅かに桜の花びらが散っていた。
この桜は、咲く前に散ったのだろうか。
咲いてからすぐに、誰にも見られることなく散ったのだろうか。
早々と散った桜の花びらの数と、私の涙の数と、どちらが多いだろうか。
やがて道は、未だ開花していないイルミーネの城へと向かっていった。
それから、数週間がいつの間にか過ぎていた。
ヴォルフガング・ツバニコフの姿をイルミーネ宮廷内で見ることはなかった。
イルミーネ貴族は噂した。
「あのザビーネ辺境隊の隊長は、一時期、陛下に取り入ろうとしたが、バストール国に行くとなったら
手のひらを返したようだ。まったく心底下劣な者どもだ」
トトはそれを聞かされる度に「あの者はそういう者なのだ」と醒めた口調で答えた。
「もしかしたら、国王陛下ご自身もその事をどこかで知っていて、付き合われていたのでは・・」
そのせいで、かくいう噂に尾ひれがついた。
そして・・・東の館からはいつの間にか誰もいなくなっていた。
桜は、もう残っていない。
すべて散ってしまった。
再びトトがそこを訪れた時、東の館の窓は全て開け放しており、ガランとした館の中には桜の花びらが
舞っていた。
トトは、ツバニコフの私室・・であったところに足を踏み入れた。
中には家具らしきものはほとんどなく
部屋の中央にテーブルが一つあるだけだった。
トトがテーブルに近づくと、そこにグラスが一つ置いてあることに気づいた。
ここで酒を注いだグラス。
その下に、紙が一枚はさんであった。
「ー我の桜へー」
その文字を目にした途端に、とめどなく涙が溢れてくるのをトトは感じた。
「ああ・・」
書いてる文字はそれだけだった。
しかし、それだけで十分だった。
あの人の事をわかっているつもりだったのに、私は何もわかってはいなかった。
それどころか、あの人こそ、私のことがすべてわかっていたのだ。
手にした紙は、涙に濡れて・・どこからか流れてきた花びらがそこについた。
トトはそれを胸にしっかりと抱きしめた。

「ねぇ、君が砂漠に派遣した者たちからの便りはまだないの?」
久方ぶりにバストール国を訪れたトトは、国王サングに尋ねた。
「おまえなぁ・・」
呆れたようにサングは溜息をつく。
「何度それ聞いたら気がすむんだ。ええ?」
「ごめん・・」
トトは悲しげな表情を見せながら、胸に手をやった。
「トト、いいかげんにしろ」
久しぶりに聞く友の冷徹な声。
「えっ?」
「あいつらは、自分達の仕事に誇りをもってやっている。だから、オレも・・全て納得したわけじゃないが
仕事を任せた。それなのに、なんだおまえのその・・なさけない態度は」
「ごめん・・」
でも、胸が締め付けられるように苦しい。
「それにだ。・・・おまえがあのクソッタレを樽にでも詰めてドブ川に流そうというなら、話は別だが
そんな態度ばっか見せるんじゃねぇよ!」
「は、クソッタレって誰?」
「オレがクソッタレ呼ばわりするのはこの世でたった一人しかいないだろ!もし、おまえが本気であいつを
樽に詰めてドブ川に流すってのなら手を貸すぜ・・それができないんだったら、そんな態度見せるな。
オレが、あいつとおまえのためにどれだけ嫌な思いをしてきたか知ってんのか」
「・・ジュ・・」
「わかったなら、その胸にしまってあるものを捨てちまいな。見つかったからって、また巻き込まれて
嫌な思いをするのはごめんだ」
「サン・・ありがとう」
「よせよ、気持ち悪い。別におまえらを応援してるわけじゃないからな!」
そう言うとサングは、いつものように踏ん反り返った。
「あいつらはプロだ。信じて任せたから、きっといい知らせが来る」
「うん」
この友の前では涙は見せられない。
トトは急いで部屋を出た。
その日の夜。
イルミーネに帰ったトトは、王弟の部屋を訪ねた。
「トト・・」
入ってきたなり
「ジュ・・私・・」
と言って泣き出したトトをベッドに招き入れて、ジュールはその身体を抱きしめた。
「私・・」
「大丈夫・・」
毛布で優しく包んで、涙に濡れた頬に口付ける。
「私、言わなければならない事が・・」
「いいよ・・全部知ってる」
「どうしてっ・・!」
トトは赤く腫れた瞼を上げた。
「好きな人の事は・・よくわかる」
「ど・・して・・」
アイスブルーの瞳がトトを捉えた。
「なんで、それなら私を責めなかったの!突き放さないの!」
「だって・・」
困ったようにジュールは笑った。
「私が、負けるわけないから」
「なん・・」
「私は、誰にも文句を言われないくらいあなたを愛しているから。
今まで、私以上にあなたを愛した人はいない。この先も・・・。
私が誰にも負けるわけがない。
あなたを愛することに関しては、自信があるのです」
「そんな・・のさ・・」
ジュールの意見に唖然となりながらも、トトは新たに違う味の涙が溢れてきた事を知った。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・」
私は、あなたが愛していると言ってくれたこの口を他の人に捧げました。
この心を一時でも違う色に染めました。
「もう泣かないで」
身体を撫でてくれる手は、以前と少しも変わったところはなかった。
「私は・・・」
「もういいよ。あなたは帰ってきてくれた」
身体を優しく撫でる手は変わらなかったが、その後の行為はなかった。
ただ、両腕できつく抱きしめる以外は。
これが、ジュールが私に与えた唯一の罰なのだと、トトは思った。
次の日、国王は空になった東の館を取り壊すように命じた。
数日後・・・。
跡形もなくなった館のそばに生えている桜の木の下で、トトは一枚の紙を燃やした。
桜の花よ。
できるなら・・・私の心の中だけで、散っておくれ・・。
散らさなくてはならない恋が、もしあるのだとしたら・・。
紙が燃え尽きたのを見て、トトは桜の木を抱きしめた。
「-我の桜へー」
書いていなかった続きを、風にのせて呟く。
「-願わくば、しばしここに-」
新緑を透した日の光が、頬に当たった。
不思議と涙は出なかった。
イルミーネ王宮でトトを待っていたのは、バストールからの使いだった。
「ザビーネ辺境隊から知らせが来たとの事・・」
「ああ、そうか」
もう、心はざわめかなかった。
「彼なら、きっとよい結果を残してくれるに違いない」
知らせの中身を聞かずにイルミーネの国王はそう答えたと、バストールの使いは国王に知らせた。
イルミーネ全土に新緑の季節が訪れたのは、それからまもなくのことである。
