
それは夜会の夜だった。
「ジュール・・!アルキュード公」
ワイングラスを片手に、国王トトは弟ジュールを探した。
「兄上!」
ジュールはいつものように人に囲まれていたが
兄の顔を見ると、一層嬉しそうな表情を見せた。
「ねぇ!今日は生ハムの蜂蜜がけが出ているんだよ。私が考案した料理なんだ」
「え、それはそれは・・」
ジュールは人々の中から抜け出て、トトに従う。
まわりの人々も
「国王陛下がご考案された料理だそうだ」
と、その後についてきた。
「うん、美味しいですよ」
明るいジュールの顔を見ると、トトはほっと胸を撫で下ろした。
トトは・・・
この弟をとても愛していたので、その感想だけで十分だったのだが
次々にまわりの人々の賛辞を受けるとやはり嬉しく思った。
「大変すばらしい味ですわ」
「これはバストール風でしょうか・・いや、実に斬新な発想ですね」
誰かが言った感想に、ジュールは少しばかり苦笑を浮かべる。
トトの考案する料理は、いつも斬新な発想から生まれるもので、失敗作も多かったからだ。
トトは人々に嬉々揚々と説明をしている。
「生ハムをそのまま食べるのでは味気ないと思ってね、一工夫してみたんだ」
国王トトは以前はとても夜会を嫌がっていたが、今は嫌でもなさそうである。
その理由として、まわりの人々は、人付き合いのうまい王弟の影響が強いと感じていた。
・・が、実際二人の間に、二人しか知らない情が交わされていることまでは
知る者はいなかったのである。
「これは、実に面白い料理ですね。ダージリンの香りがする」
どこからか聞こえた声に、トトは得意げに答えた。
「蜂蜜にはダージリンティーを混ぜたんだ。香りをつけたほうが合うと思って・・」
「たしかに、これはただの蜂蜜では味が半減してしまう。そういう意味では成功だが、しかし・・
口に入れた感じ・・いわゆる食感というやつが、足りない気がするな」
トトは少しムッとして声の主を探した。
すると、斜め後ろに見慣れない顔を見つけた。
まわりの人々より、頭一つ背が高く、かすれた草色の髪をした男だった。
長い髪を、後ろで一つに細く結っているところを見ると、イルミーネの民ではないようだ。
「私なら・・」
皆が男の視線に注目する。
男は口直し用に用意されていたアーモンドを取ると、指で潰し、生ハムの上に振りかけた。
「どうぞ、国王陛下」
男は不遜な顔つきで、ムッとしているトトに皿ごと手渡した。
トトがそれを口に入れると、生ハムの塩味と、蜂蜜の甘み、ダージリンの香りに
アーモンドの香ばしさと、歯ごたえが加わり、実に複雑なハーモニーを奏でた。
もとの味よりも一段上の美味しさだと認めざるを得ない。
「うん、美味しい・・」
残念ながら、トトは男に敗北を認めた。
「そりゃよかった」
男はフッと笑うと、トトに背を向けて去った。。
「ちょっと・・」
あの者は誰なのだろうか。
イルミーネの貴族ではなさそうだ。
戸惑うトトの背後で、貴族たちの声が聞こえる。
「国王陛下になんと無礼な・・」
「あの様相は、ザビーネ辺境隊のものですね」
「なんだってそんな野蛮な者どもがこんな場所に・・」
「ねぇ、ザビーネ辺境隊とは、どんな者たちなの?」
トトは、ジュールの腕に頭を乗せて問うた。
二人とも一糸纏わぬ姿で、身体を寄せている。
コトが済んだ後のまどろみの一時だった。
「ああ、今日の夜会に来ていた背の高い男でしょう」
「うん・・」
しかし、ジュールよりは、少し小さかった気もする。
でも、小柄なトトよりは見上げるほど大きかった。
「あれは、ザビーネ辺境隊の隊長だそうです。名までは聞きませんでしたが・・お知りになりたければ
調べますが・・」
「いや・・そう言うのじゃなくて、それはなんなの?辺境隊と言ってもイルミーネの軍隊ではないよ」
「辺境隊とは、いわゆる渾名みたいもので、国々の辺境に現われては、戦に手を貸したり、敵国から
国境を守ったり・・そういうことを金を請け負う者たちのことです。なかでも、ザビーネ辺境隊は
組織の統一性や、各個人の質のよさで謳われていますが・・」
「質の良さとは、強さということだよね」
たしかに、あの男は強そうだった。
さすがに、夜会では鎧の様な物は纏っていなかったが、普通の服の上からでも、鍛え上げられた
身体の線がわかった。
「でも、どうしてそんな者がイルミーネの夜会に来て、私の料理批評をしたのだろう?」
「ハハハ・・」
トトがどこか悔しそうに言うのを、ジュールは聞き逃さなかった。
「笑わないでよぉ!」
「ごめん。・・・最近ザビーネ辺境隊は西の国に呼ばれているともっぱらの噂で」
「戦になるの?」
不安そうなトトの額を指で突いてジュールは言った。
「いや、西の国の向こうに砂漠があるでしょう。西の国の王様は砂漠の向こうに何があるのか知りたい
らしく・・それで、最強のザビーネ辺境隊に金を払って、砂漠越えを依頼している・・と」
「そりゃ、西の国の王様は酔狂な人だね」
「・・あなたの・・自称親友殿ですが・・」
「は、サンがっ!?」
イルミーネ国の隣国バストール国の王サングはトトの親友だった。
「イルミーネの西にある国はバストール国じゃないですか」
「なら、バストール国とはっきり言ってくれよ」
「噂の続きですが、王様ご本人が砂漠越えをしたいと言い出したのを、家臣たちが止めてこういう話に
なったらしいですよ」
「それなら、私も行ってみたいよ」
「そう言い出すと思って、バストールの名を伏せておいたのですが・・」
困ったようにため息をつきながら、ジュールはトトの頭を撫でた。
「ここにいて・・ね」
「うん・・」
以前、自分勝手に飛び出し、ジュールに多大な迷惑をかけた経験があるので、それ以上は言えない。
「でもさ、でも、今日の料理については完敗だよ・・どうしてそんな者があんな料理にこだわるのだろう?」
相手の素性がわかったところで、あえて違う話題に持っていった。
「さっきも言ったように辺境隊は、世界中を流れていますからね。それなりに味にもうるさくなるのでは
ないでしょうか。舌も経験で鍛えられますからね」
負けじと、ジュールは”私も・・”と加えた。
自らも外交官として各国を飛び回っている立場上からの言葉だろう。
「でも、私はあの料理はあのままのほうが好きでしたよ」
瞳を閉じて、ジュールは言う。
「そう・・」
ジュールのまどろんでいる表情が見たくて、トトはジュールの身体に半身を預け
一時前までは、止めどなく荒い呼吸を繰り返していた唇に触れた。
今は、静かな呼吸が聞こえる。
安心したように、トトはそこに口付けた。
「おやすみ」
「おやすみ・・」
間違いなく、その時だけは二人だけの時間だった。
「先日は大変なご無礼をいたしました。イルミーネ国王陛下」
朝早くに、宮廷に出仕した男は国王に跪き、こう発言した。
しかし、上げた顔には微塵も国王を敬っていない様子が伺えた。
「そなたの名は?」
「私は、ヴォルフガング・ツバ二コフと言います」
イルミーネの民にはない名前だった。
「ザビーネ辺境隊はバストールの国王に呼ばれていたとか・・」
「ええ、良くご存知ですね。ただ、まだ期間があるので、イルミーネ国にしばしの滞在をお許し願いたく
ここに参上いたしました」
「それは許可しよう。そなたの隊とやらが目立った行動をしない限りは。
しかしなぜ、まっすぐにバストール国に向かわないのか」
「ええ、それは・・」
男は、その外見に似合わない動作をした。
困ったように鼻先を撫で、言った。
「ここイルミーネが私の故郷に似ているからでしょうか」
「故郷?」
「ええ」
そう言うと男は、遠くを眺め・・話した。
「私の故郷は、イルミーネよりだいぶ北にある国にあります。もっとも今はもうありませんが・・」
「ない・・と?」
「戦乱でね・・荒廃して。一つの国、一つの村がなくなることは珍しいことじゃない」
トトは、その瞳に寂しさとも悲しさともつかない醒めた色を見た。
「ここに似ていたのか?」
「どことなく・・少なくともバストール国よりは」
男が礼をして去った後・・・。
トトは一人玉座に座ったまま考えた。
自分の国が、住んでいるところが、亡くなってしまうことなど想像したこともなかった。
彼のまわりの人々は、親は、友人は・・大切な人は、どうしたのだろう。
たぶん、無事でいるのだろう。
だからこそ、彼は、あんなにも平然としていられるのだ。
きっとそうだ。
しかし、その考えは裏切られた。
「私の家族・・残念ながら、私の国の人間で生きている事が確認できるのは、現在
私の部下になっている連中だけですよ」
今宵もまた、夜会に来ていたツバニコフは答えた。
「ほかの人達だって無事なんじゃ・・」
言いにくそうに言葉を進めるトトだったが、またも希望を絶たれた。
「自分で家族の死は確認しました。それだけでもよかった」
安堵したように息を吐くツバニコフを、信じられないという瞳で見るトト。
「なぜ?よかったなんて・・家族は」
「氷の向こうの国で死ぬまで働かされるよりはましです」
「・・!」
「トト陛下、あなたはこんなことを知らない世界で生きていてください」
「すまない・・」
気安い慰めなんて、知らずに言うものじゃない。そうトトは感じた。
「知らないほうがいい事も世の中にはある」
そう呟いた広い背中が、妙に悲しげに見えて。
トトは、男の姿から目が離せなくなっていた。
「ザビーネ辺境隊の滞在場所はどこにあるのだ?」
「今は、一時的に東の郊外の屋敷を借り切っているようですが・・」
「そうか」
「それがいかがされましたか?陛下・・もし問題があるようでしたら退去を命じますが」
「いいや、その必要はない」
「はぁ」
臣下は、複雑な表情で退出した。
「ヴォルフガング・ツバニコフはおいでか?」
東の郊外、林に囲まれた屋敷。
深くフードをかぶった人影が玄関先にたっていた。
「隊長ならいますが、どなたで?」
「私は・・」
名乗ったフードの男は、ツバニコフの部下に案内されるまま、部屋に向かった。
「誰だ?誰も通さないようにと通達しておいたはずだが・・」
部屋から、ツバニコフの声と思われる男の声が聞こえた。
「しかし、隊長・・相手は・・」
「すまない。私が無理に頼んだんだ」
客人は目深にかぶったフードを取った。
「これは、国王陛下!」
「先日の詫びをしにきた。すまない、話したくない事まで話させた」
「気にしないでください」
ツバニコフは、そう言うと、戸棚からグラスを2つ取り出し、酒を注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
グラスからはとてもよい香りがした。
「10年ものです。普段飲むのにはいい」
「ああ、とてもよい香りだね」
「こんなものにばかりこだわって、いけない癖だ」
「各地を回っているのだろう。もっといろいろ知ってるのではないか」
「フフ・・」
と笑い、ツバニコフはトトをじっと見つめた。
「国王陛下は面白い方だ」
「なぜ?」
「我々のことを聞いているでしょう。金のためなら情け容赦なくなんでもする連中だって」
「でも、あなたはそんな風には見えないよ」
「そう・・ですか」
ツバニコフは驚いているように見えた。
「あなたは、私がどういう人間か知らないだけだ」
グラスの氷がカラリと音を立てた。
「トト陛下、あなたは人を傷つけたことなどないだろう」
「・・いいや・・でも・・人を傷つけない人などこの世にいるだろうか・・」
「少なくとも、殺したことはないはずだ。人を殺した奴は目が腐った色になる。あなたの目は綺麗だよ」
”殺す”という言葉を聞いて、トトは本能的に身体を震わせた。
私だって、母上を父上をジュールを傷つけた過去がある。
でも・・この人の痛みはそれとは違う・・。
自分にも他人にも言い訳できないくらい傷つき、傷つけたそういう痛み。
「人を切る時の感触、そんなものが染み付いた腕だ」
ツバニコフは自らの腕をさすりながら、トトを見た。
トトは笑顔で答えた。
「まったく面白い人だ、あなたは」
それからどういうわけか、トトは忍んでザビーネ辺境隊の屋敷に赴くようになった。
ザビーネ辺境隊が、イルミーネに滞在してから数週間。
バストール国からの使いはまだない。
いつもの通り、サング国王が駄々をこねているのだろうと、イルミーネの貴族は噂した。
「それにしても、連中いつまでここにいるのやら・・
陛下、早々に引き上げるように勧告いたしましょうか」
イルミーネ貴族達は、ザビーネ辺境隊にあまりいい印象を抱いていない。
「問題を起こしているのでもないのに、出て行けとは乱暴すぎないか。もう少し待ってもよいのでは
ないか。バストールの時間感覚のズレはいつもの事だろう」
「まぁ、そうですが・・・物騒な連中ですので・・」
バストール国を持ち出せば、臣下は何もいえない。
それに、トト個人はザビーネ辺境隊がもうしばしここに留まってほしかったのだ。
「バストールの連中は熱すぎてね」
ツバニコフは言った。
「私は寒いところの生まれですから、彼らとはどうも馬が合わない」
とはいえ・・と続けた。
「暑いところの民族の特徴に助けられているな。おかげで、もう少しここにいられる」
それを聞いてトトが笑った。
「バストールの乗り合い馬車なんて、3時間くらい平気で遅れるんだ」
「だろうな・・」
数週間のうちに、トトはツバニコフの事をよく知るようになっていた。
彼の両親も、妻も子も、戦争で灰になってしまった事。
それから、敵国の捕虜になりそうだったのを、今の辺境隊に救ってもらった事。
先代の隊長が戦死して、自分が隊長になった事。
「今日は私の剣を持ってきたよ」
トトは長い袋の中から、剣を取り出した。
「ほぉ・・これが国王陛下の剣ですか」
ツバニコフは慣れた手つきで剣を手にとって見せた。
「なかなか拵えがしっかりしている」
「母上にいただいたものだからね」
そう言うとトトは悲しそうな顔をした。
「うん」
ツバニコフは剣をテーブルに置くと、そっとトトの肩に手を置いた。
トトが顔をあげると、その手を下ろし
「そんな顔を見せられると心配になる」
と言った。
「あの・・いや、なんでもない」
きっと私の悲しさなど、この人の前ではどうでもくらい小さな事に違いない。
そう思うと、それ以上口を開く事もできず・・・。
「言いたいことがあれば、言えばいい。言いたくないなら、無理に聞きはしないよ」
「別に・・何でもないよ」
薄いグレーの瞳は、静かな湖のようで、小さな胸に秘めた悲しみが沈んでいくようだった。
「私は、北の国にある湖の絵を見たことがある。イルミーネにも似たところがあるんだよ。
私は、そこにいくととても落ち着く。その場所がとても好きで・・・」
「滞在中に行ってみたいものですな」
「あなたはその場所にとてもよく・・似ている」
どういうわけか、一端落ち着いたはずの胸に悲しみによく似たさざなみが沸き立った。
たぶん、飲んだ酒のせいだろう。
「ならば、なおさらその場所に、あなたと行ってみたいものだ」
「そう・・」
自ら言い出したのに、その場所にこの人と行ってはいけないと、心が警鐘を鳴らしている。
「今日は、これで失礼する」
「では、入り口までお送りいたしましょう」
断れもせず、入り口まで来た時。
トトは、自分の背後に立つ男の袖口を掴んだ。
「どうなさった。酒に酔われたか?」
「いいえ、いいえ。大丈夫だ」
そう言うトトの瞳が赤いのを見て
「あまりお辛い事は思い返さぬほうがいい」
と、ツバニコフは言った。
「ありがとう・・あなたも」
明らかに無理をして作った笑顔に、言い出せぬ感情を秘めて・・。
トトは身体を抱えるようにして去っていった。
「トト陛下・・」
「兄上・・」
「兄上・・」
「ああ・・」
「どうかなさったのですか?」
あきらかに、心ここにあらず状態の兄を気遣って、ジュールはトトの前に立った。
「ザビーネ辺境隊の隊長はとても面白い人でね。話を思い出すだけでもいろいろと考えさせられる」
「ああ、彼はイルミーネ貴族たちにはとやかく言われていますが、それ以上の人物のようだ」
ジュールの発言にはイルミーネ貴族たちへの皮肉がこめられている。
「とにかく、見識の浅い私は教えられることばかりだ。ジュールも一度話してみるといいよ」
トトは笑顔でそう言ったが、ジュールは眉をしかめた。
「いいえ、結構です」
「なぜ?彼はまわりが言うほど悪い人物ではない。ジュールもそう言っていたじゃないか」
「ええ、悪い人物ではない事はわかっています。しかし、あの人とは口を訊きたくありません」
そう言うとジュールは、トトの身体を抱きしめた。
トトの身体はジュールの腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「ジュール・・」
その胸の温かさに身をゆだね、瞳を閉じた。
世界中で一番安心していられる場所。
「あの人は、私に似ている・・ような気がする」
「ジュールに?」
姿かたちはまったく似ていないのに。
「私の一番思い出したくないところを、よく知っている人だと思う。
私も、あの人の思い出したくないところを引きずり出してしまう・・きっと」
ジュールはトトの顔を上げさせ、アイスブルーの瞳で見つめた。
一見とても冷たい色の瞳だが、中がわかると暖かいものに見えてくる。
「私を暖めてください」
輪郭を捉えていた手は、頬をたどり、そして指先は肢体をなぞっていった。
「最近陛下は、ザビーネ辺境隊の隊長と懇意になさっているらしい」
そんな噂が、宮廷で流れている事に気づかないまま、トトはしばしば東の屋敷を訪ねた。
「陛下、ご忠告申し上げます」
渋い顔をますます渋くしたセバスチャン・デティオール卿は、国王トトに詰め寄った。
「どうしたのだ、セバスチャン」
「どうしたのだではありません。あのザビーネ辺境隊の者どもと陛下が懇意にされているともっぱら
の噂でございますぞ!」
「そんなに大げさに言う事ではないではないか。彼らは一時期ここにいるだけだ」
そう・・一時期・・。
自らの声が冷たく胸に突き刺さる。
「しかし、あの男を懇意にされているとは問題なのです」
「どうしてだ?あの者は何も悪いことはしていないのに」
「あのヴォルフガング・ツバニコフという男は悪い噂が絶えない人物のようです。各地の国で
国王に取り入っては、たくみに利権を得ているとか・・」
「そんな・・事はない。彼は、まだ私に何も要求はしていない」
答えながら、足がガクガクと震えた。
「ともかく!あまり感心しませんな。陛下のお気持ちもわかりますが、距離を置かれたほうがよろしいのでは」
「忠告はありがたく訊こう・・・」
答えた口は自分のものではないように虚しく動いた。
「今日は少し遠出をしたいと思います。許可をいただけますかな」
再びトトが東の館を訪ねると、すでに馬をひいたツバニコフの姿があった。
「その姿を見たら、許可を出さざるを得ないよ」
「ありがとうございます」
彼は、ワザと大仰に礼をして
「陛下の馬を」
と部下に命じた。
「私は・・」
馬に乗りたくない・・とは、どうしても言えなかった。
「いかがなさいました?」
震える手で手綱を握り、恐怖を振り払う。
「何でもない。行こう」
ツバニコフの馬は足早に森を駆け抜けてゆく。
トトは、それを見失わないように同じスピードでついていった。
やがて、森を抜けると草原に出た。
前を行くツバニコフが振り返る。
「よくついて来られましたね。私の馬にここまで近くついてきたのはあなたくらいだ」
「だって、あなたに負けたくなかったからっ・・」
それでもさすがに息が切れている。
「少し、そこで休もう」
何もない草原で横になる。
そういえば、しばらくこんな事もしていなかった。
「雲が・・流れていく」
「私は、これからあの雲の向かう方向に行くのです」
隣から声がした。
「・・・砂漠とは、どんなところなのだろう」
「砂がたくさんある、とても暑いところです」
「そんなのわかってるよ!」
笑い声が聞こえてきた。
「でも、あなたは寒い国の生まれなのでしょう?大丈夫なの?」
「砂漠は温度差が大きくて、昼間はとても暑いですが、夜になると凍てつくほどの寒さですから」
「よく行く気になったね」
「仕事だからかな。もう帰って来れないかもしれない・・」
「そんな・・」
「私は、生と死の狭間で生きることしかできないのかもしれない。刹那的にしか生を感じられない」
「行かないで・・」
いつの間にか、手を堅く握り合っていた。
空だけを見ていると、まるで世界でたった二人しかいないようだった。
「いや、急に降ってきましたね」
突然、発生した雨雲に巻き込まれて、近くの小屋に逃げた。
運の悪いことは重なるものだ。
逃げた小屋には鍵がかかっていて中には入れず
しかたなく、雨がやむまで、屋根の下でじっとしていることにした。
「夕立だと思うから、すぐにやむだろう。そうしたら、また馬に乗って帰れますよ」
「うん・・・」
「どうかされたのか?」
膝をかかえ、俯くトトを灰色の瞳が見つめた。
「私、実は馬に乗るの苦手なんだ」
「でも、さっきはよく乗りこなしていた」
「乗れるのだけれど・・苦手なんだ。母上が・・馬の事故で亡くなってから」
なぜだか、突然溢れた涙を止める事ができない。
「こちらへ」
広げたマントの中に抱え込むようにして、ツバニコフはトトを自分のほうへ寄せた。
「大変申し訳ない事をしてしまった。何も知らず・・」
「どうして・・こんなこと・・も、忘れてたのに・・だ・・ら、私は大丈・・夫だ」
しゃべろうとしてもうまく舌が回らない。
「帰りはここに馬を置いていきましょう。私があなたを抱えて戻ります。馬は後で部下に取りに来させればいい」
すると、トトは首を横に振った。
「帰りも馬で帰るよ。あなたも来た時と同じ速さで戻ってほしい」
「でも、無理は・・」
「お願いだから、私に負けを認めさせないで。あなたに追いつきたい。あなたに少しでも近づきたい」
知らず知らずのうちに、袖口を必死に掴んでいた。
「困ったな。こんな男と知り合いにならなければよかったと、後悔することになりますよ」
口先に皮肉な笑みを浮かべるツバニコフの胸ぐらを掴んで、トトは言った。
「嫌になるほど、後悔するよ。きっと。でも、それでもあなたに引き離されたくない・・離れたくない!」
「陛下・・」
「しばし、ここに・・」
「それを望んでいるのは、私のほうだと、すでにあなたはご存知か・・」
流れる涙が、悲しみの意味だけではないと悟った時、二つだった影は一つに重なっていた。
ジュールは、先にベッドに入っている兄の姿を見て、自らもその隣に横たわった。
「トト・・」
小さな身体をまるめていたので、今にも抱えられそうだった。
後ろから、そっと腕を回して抱きしめると、身体が震えているのに気づいた。
「トト・・?」
泣いているようだった。
「どうかなされたの?」
「ううん、何でもないんだよ」
ジュールに合わせる顔がなかった。
あの人の感覚が残っている唇で、ジュールに口付けをすることは躊躇われた。
「トト・・お疲れなのかな。もう休んだ方がいいよ」
頭を撫でる手の暖かさが、痛い。
「ジュージュ・・ジュージュ・・」
振り返り、その胸の中で泣いた。
こんな酷い行為はないというのに。
”あの者は、国王陛下に取り入り、利権を・・”
そんな冷たい言葉に反発するように、唇に残された熱さは消えない。
「大丈夫、大丈夫・・」
そう言って震える背中を優しく撫でてくれるジュールの手。
私はどうしたらいいのだろう。
結局、その夜も流されるようにジュールに抱かれた。