-初めてのお礼-

ちゃんと覚えていないとね。

なにげない幸せを忘れる時がある。
最近では、当たり前になった一緒にお風呂に入ることとか。

ここちよい暖かさの湯につかるのが、一つの作業になりつつあるなんて…。
トトは、溜息をつきながら手足を伸ばした。
腕に沿って、背後からもう一つの腕が伸ばされる。
 
「今日は、なんか普段より気持ちいいな」

後ろから聞こえる声に、振り返る気もしない。

「そう・・」

どういうわけか、何もないのに疲れている。
何もする気にならない。
何をしても無駄に思える。
何をしたわけでもないのに、もはや何もかも遅かったと感じられる。

 -今現在、私は幸せなんだ-

そう思いこむたびに、どっと疲れが出るのはなぜだろう?

-きっと世の中には、こんなふうに落ち着いて風呂に入れない人もいるに違いない。
  その人達より私は幸せなのだ・・・-

-生活には問題がない-

-恋人と風呂に入る時間もある-

何が不幸なのか?

こういう時には、嫌な事ばかり思い出す。
 
-昔、あの人にこういう事を言われたんだ・・-
-だいたい、あの人の考え方は間違っているのに・・-
-あの人のせいで私はこういう目にあってる・・不公平じゃないか-

 
「トト」
「・・」
返事をするよりも、自らの考えに固執するほうが重要だ。

-私はあの人とは違う-

「怖い顔してる」
眉間に指が当てられた。
軽くぐりぐりと押される。

「ううん・・」
横を向くと、こちらを覗きこんでいるジュールと目が合った。

「何がそんなに不安なの?」
「不安?そうなのかもしれない。ああ、きっとそうなんだね」

この感情は、疲れや嫌悪じゃなく、「不安」なんだ。
ジュールに言われて初めて気づいた。

「私は・・もう、どうしたらいいかわからないよ」
「また、どこか出かけようか?気分転換に」
「う、ううん。落ち着かないんだ。ごめん」
「うん」
 

「不安って怖いよね」
しばらくして、ポツリとジュールが言った。
「ジュールにも怖いものがあるの?」
絶対無敵に見えるこの人を怯えさせるものがこの世にあるとは、到底信じがたい。
「こう見えても、私は臆病な小さい生き物なのです」
まことにわざとらしく言ってジュールは苦笑した。
ジュールの言うとおりだとしたら、私などタンスの裏の埃みたいな存在だろう。

「ダメだ!何を考えてもマイナスにしかならないよ!」
「はぁ・・」
ジュールは、一息ついた。
 
「自分のしている事、してきた事、これからする事の全て無駄に思える。
もう、どうしたらいいかわからないよ。私、このままでは壊れてしまう・・」

泣くことさえ、出来ない。
大した変化もないのに、途方にくれているのだ。
だが、馬鹿らしいと思う気持ちは沸いてこない。

「深い霧の中にいるみたい・・」
膝を抱えて下を向くと、本当に湯気が立ち上ってきて目の前が真っ白になった。
「不安の中にいると何も見えなくて怖いよね。でも後ろを見るのはもっと怖いよ。
そこには何も見えないのだから。途中で立ち止まるのもいいけど、霧の中で立ちすくむのにもなかなか勇気がいると思う。何も見えなくて怖いなら、前を向いて進むしかないよね」
「進んで何もなかったらどうするの?」
「さぁ・・どうなるんだろう」

ジュールはニヤリと笑った。

「そんな無責任なー!」
「でも、何かあったらラッキーだよね!」
「まぁ、確かにそうだけれど・・」

人生なんて宝探しみたいなもんで、何があるかわからない。

「でも霧の中を進んでいくなんて恐ろしいよ」
本当に目の前が白くなってきた。
もう湯船に入って10分くらいたつ。
想像していた舞台にそのまま移動させられたような気がして怖くなった。

「でも、ここに・・こんな大きな人がいるから大丈夫」
背中ごしにジュールは声を立てて笑った。
「前の謁見の時でも、そう言ったじゃない」

この前…いろいろな国の大臣を呼んで、難しい草案を読んだのだった。
しかも他国語で。
一人で立たなきゃいけない大舞台を前にして、萎縮する私の肩に手を置いたのは、ジュールだった。

「大丈夫。ここに私がいると思えば、何となく勇気が沸くから。
ほら、あなたの後ろには、いつでも大きな影があるように」

そして、草案を読む時になって私は思ったのだ。
私の前にいるたくさんの人々を見ながら・・・。

ああ、皆怖いだろうな~。
この小さい王様の後ろには、どうしてこんな大きい人が立っているんだろう…。
 
そう思ったら、圧倒されずにすんだ。
 
 
「ジュールはいいなぁ、背が高いって得だよ」
あの時も、そう思ったものだ。
「う~ん??こんな人が恋人でよかったね」 
ジュールは胸を張った。
ザブンと湯船に波が立った。

ふと振りかえって見ると、ジュールは何も着ていない。
当たり前だ。
風呂に入っているのだから。
こんな事さえ忘れかけてた。
でも、あらためて確認すると妙に恥ずかしくなってきた。

 モジモジ・・・。

「どうしたの?」
「照れてるの」
「どうして?」
「裸だから」

「?風呂でも服を着ろと??」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」

何でもない会話をしているうちに霧は少し遠ざかってきた気がする。

「とにかく、前を向かないと何も見えないんだね!」
勢いよく湯船から出たため、ジュールの顔に飛沫がかかった。
「ぶっ!!風呂で溺死だけは避けてください」
「ごめんごめん。でも、できるだけ前を見るようにがんばってみるよ」
「その意気、その意気!意外なものが見えてくるかもしれないしね」
「なるべくそれが面白いものでありますように・・」
手を合わせて祈ってみる。

「限定品だといいですね!」
いいかげん、湯船につかっていたのでジュールの肌が紅潮している。
 
「もう出たほうがいいよ。のぼせてしまうよ」
「うん、そうする」

 
今日は、ジュールの身体を拭いてあげようと思う。
丁寧に。

それが、こんな有難い一瞬を取り戻させてくれた人のために私ができる
これまでしたことのないお礼の方法だからだ。
    END